すっぴん歌姫





夕暮れの陽が遠く山の後ろを真っ赤に燃やしている。反対に濃くなった緑色の山腹には所々に民家らしきものが見え、長細い煙を立ち上らせている。合間には桜の木がまばらにあって著しい緋色とまったく色合いの違う樹木の翳りとがお互いに混ざり合って美しい山の調和を奏でていた。どこか遠くのお寺から夕刻を知らせる鐘が微かに響いてきている。

 宮本佳林は縁側に座ってずっとそんな山の景色を眺めていたが、いつの間にか近くでも香ばしい食欲を誘う匂いがしてくる。宮本家の厨房でも夕食の準備が始まったのだ。視線を近くに移すと庭の様子もすっかり夕暮れて庭石が大きな影をつくっていた。あれほど燦々と照らされた雲母をあしらった白砂もくすんで青光りし、棕櫚の木の葉はすでに色を失って黒い輪郭だけを揺らしていた。

あたりが暗くなる一瞬前の時間帯。この時刻を「逢魔が時」と言って幽霊や妖怪に出会いやすい時間帯だと朋子に教えられた。そんなものに出会いたくはなかったが、佳林はひょこりと縁側から飛び降りる。厨房の様子を見に行くためだ。佳林は忙しく働いている人達のことを見るのが好きだった。野菜を切ったり釜戸で火を起こしてご飯を炊いたりみんな脇目もふらず自分がやることに集中している。一瞬の無駄もなく敏捷に動いている人達を見ていると働かされてるのではなく、本当に幸せそうにみんな動いているのがよく分かった。自分もいつかはそんなふうに働けるようになってみたい。ただし自分が高貴な貴族という身分でありながらそんなことが叶うかどうかは自分でも分からなかった。

 厨房の搬入口に近づくにつれ、野菜を運び入れたり洗い物を外にだしたり多くの使用人の話し声が聞こえて賑やかになる。時々手伝う子供達のはしゃぐ声までして、まさしく逢魔が時になっていた静かな縁側とは大違いだ。

佳林はその様子を柱の影に隠れてじっと見ていた。そのうち人々の話し声や煮炊きの音に混ざって微かな鼻歌のようなものが聞こえてくるのを感じた。耳を澄ますとばちばちと燃えるかまどの火の音にその歌はリズムを刻んでいくようだ。少しくぐもったような、それでも美しい歌声だった。他の人達に見つからないように佳林はさっと厨房の横を通り抜けると、その隣がかまどのある部屋だった。開けっ放しになっている戸から中をそっと見ると、少女が一人しゃがみこんでかまどの火に筒で息を吹きかけている。息を吹く合間に自然と歌ってしまうものだからあたかも炎と同調して歌が流れているように聞こえるのだ。

多分使用人の子供なんだろう。佳林と同じくらいか少し年上ぐらいに見えた。ただし、身なりは佳林が来ている美しい着物とはだいぶ違って汚れのついたはっぴを着てひざまでおろした麻の生地はほつれたのを何度も直した跡があった。それでも髪の毛はきちんと結ばれて、それがその子の凛とした気持ちの強さと生命力を象徴しているように思えた。佳林は顔が見たくなってそっとその子の後ろにそっと回りこんだ。そして横から土間にあがって上からも眺めてみる。少女は佳林に気づかずにまた歌いだした。



火の鳥は歌う。

暗い空を明るくするまで。



ふーっと少女が竹筒で息を吹きかけた。炎は呼びかけにこたえるように明るく踊っているように見える。少女はまた同じフレーズを歌った。また火が燃え上がる。佳林はそれを見ていると火の魔術師の仕事を見ているようで楽しくなった。



「「火の鳥は歌う」」

思わず佳林はかぶせて歌ってしまった。二人の声が重なる。ばちっと合わさるような炎の響きが聞こえるのと同時に少女が振り返った。驚いた顔にはところどころすすがついて黒っぽくは見える。でもそれにも増して佳林の心を捉えたのはくっきりとした目とすっと整った鼻立ちだった。着飾っていなくても一見して美少女だということが分かる。佳林の胸は高鳴った。少女はそのまま佳林を見つめるとゆっくりと笑った。顔の作りは佳林よりもずっと大人っぽいのに笑うと幼さが目立って自分と同じくらいの年かなと佳林は思った。少女はすぐに佳林の立っている土間にそのまま駆け上がってきた。至近距離で少女と見つめ合う。少女は向き合っただけで何も話しかけてこない。佳林も貴族同士の社交会での挨拶は心得ていたけどこんなタイミングで会った人と何と話していいか分からなかった。

そのうち少女はふところをもぞもぞと懐を探すと赤いものを取り出して佳林の前にさしだした。小さめの真っ赤ないちごだった。佳林は何も言わずにそのままいちごをかじった。甘くておいしかった。思わず笑顔になる。

「さくら、何してるの?」

そのとき責めるような激しい女の人の声が飛び込んできた。その人は外から一気に駆け込んでくると佳林の一緒の土間にあがった少女をいきなりひきずりおろした。そして佳林が持っているいちごを汚いもののように地面に叩き落とした。そして悲しそうな表情を浮かべて佳林を見上げて膝を折った。地面にひれ伏すと隣にいる少女の頭も一緒に地べたにおしつける。

「娘が大変失礼なことを致しましてどうかお許し下さい。娘はまだ何も知らないのです。どうかどうかお許しください」

一瞬何が起きたのか分からなかった佳林もだいぶ事情がつかめる。この子はただいちごをくれただけなのに。自分が何か罰を与えるとでも思っているのだろうか。佳林は地面に落ちている食べかけのいちごを見てひどく落胆した気分になった。

「さくら、この方はこのお家のおひい様ですよ。こんな汚いものをお渡ししてはいけません」

少女は驚いたような顔と同時にさきほどにはなかった寂しげな表情で佳林を見上げた。そしてすぐに頭を下げて土下座する。佳林はまたひどく悲しい気持ちにさせられた。

「ほら、みんな働いているのですから邪魔してはいけませんよ。佳林様」

そのとき後ろから朋子がやってきた。

「とも」

佳林は思わず朋子にすがりついた。

「どうしたのです。佳林様」

朋子はそう言って佳林を抱きしめた。ひとしきり抱擁が終わると朋子はまだ膝まづいている二人を見た。そしてゆっくりと傍まで行くと着物を優雅に折ってその場にしゃがんだ。

「ごめんなさいね。佳林様も悪気があったわけではないのです」

「いえ、とんでもございません」

その親子はまだ頭をあげようとしない。

「佳林様もこの通り怒ってはいませんよ」

朋子がきょとんと立っている佳林を振り返り軽く目配せして言った。

「ありがとうございます。朋子お嬢様」

ひとしきり朋子にお礼を言うと佳林に丁寧に辞儀して二人は去って行った。

「せっかく友達ができたと思ったのに」

佳林は不満そうに言う。それを見て朋子は吹き出すように笑った。

「何がおかしいの?年も同じくらいだったし」

「確かにあの子は佳林様と同じ年ですよ」

朋子は佳林をなだめるように言う。

「とも、あの子のこと知ってるの?」

佳林が驚いて尋ねた。

「知ってるも何もあの子の家はうちの家の裏にありますからね。名前はたしか小田さくらと言いましたか」

朋子は言った。「さくら」とてもきれいな響きの名前だと佳林は思った。

「そうなんだ。じゃあとももそのさくらって子の友達なの?」

「昔は話したこともありましたが今は全然。これでも私は宮本家に出入りする人間になりましたから」

朋子は少し得意げに言った。

「そうなんだ。佳林とは友達になれるかな」

佳林はほんの少し淡い期待をこめて言った。

「それは無理です。佳林様」

でも朋子は首を横にふった。

「身分が違いすぎるのですよ。佳林様とあの子では。佳林様は貴族のお姫様。あの子はただの使用人の娘。例え友達になっても一緒に遊ぶなんて絶対出来ません」

朋子はきっぱりと言い切った。朋子がそう言うんだから間違いはないのだろう。

「そうなんだ」

佳林はため息をついた。佳林は貴族という自分の立場がとても悲しくなる。身分なんてなければいいのにと佳林は思った。

「佳林様は私ではご不満ですか?」

朋子の言葉に佳林はすぐに首を横にふった。

「そんなことない。けどともは身分の違いで悲しい思いをしたことはないの?」

「私は貴族とは言っても元々は庶民の出ですから。昔はよく近所の子供と遊んでいましたよ」

「そっか。うらやましいなあ」

佳林は羨望の眼差しで朋子を見る。朋子もそんな佳林の表情を見逃さなかった。

「でも、強いて言えば」

そう言って朋子は一歩佳林に近づく。

「こうやって貴族のお姫様に触れられなかったことですかね」

朋子は佳林の体に手を回すと強く力でぎゅっと抱きしめた。

「な、何?」

佳林はそう言いながら着物の上からでも朋子に触れられると体の芯から熱いものが昇ってくるのを感じる。心臓の鼓動が一気に速くなった。

「佳林様はやっぱりいい匂いがいたしますね」

首のすぐ後ろに朋子の吐息を感じる。高まる感情を抑えきれずに佳林の頭は動転した。華奢な体の佳林は朋子に抑えられるともう身動きがとれない。

「やめて。離して」

佳林は首を横にふって朋子に訴えかける。

「嫌です。佳林様」

いつもは従順な遊び相手の朋子が今だけ言うことを聞いてくれない。朋子は佳林を抱きしめたまま離そうとしなかった。朋子の吐息が耳にかかる。佳林の心臓が激しい音を鳴らしてこのままでは朋子にも気づかれてしまいそうだ。

「ぶ、無礼者」

普段使わないようなそんな言葉を叫んだ佳林は全身に力をこめてやっとの思いで朋子から解放された。朋子は勢いに押されて二、三歩後ろにのけぞった。一瞬佳林はやりすぎたと心配になったが朋子が不敵な笑みを浮かべているのを見てその必要がないことを知る。

「時代がもう少し昔なら打ち首ですね。私も」

朋子はさして反省した様子もなく飄々とそう言った。その朋子の言い方がおかしくて佳林は思わず笑ってしまった。そして口には出さなかったが抱きしめられるという感触も悪くないと思った。朋子に包まれているという感じがして本当に心地よかった。ただし心臓にはこれ以上ないほど悪い。

「さ、佳林様。おふざけはこれぐらいにして夕食をいただきましょう」

朋子が佳林の手をひいて歩く。どちらがおふざけだと佳林は心の中で思う。朋子はいつも優しいが時々こうやって暴力的になることがある。何か朋子をそんなふうにかきたてることを自分はしただろうか。そう思ったときに佳林はあの歌の少女を思い出した。少し色黒の凛として整った顔。そして何色にでも変化しそうな変幻自在の歌声をもつ美少女。自分と同じ年の「さくら」という名前だった。もしかしたらあの子が朋子の心に何か沸き起こしたのだろうか。

 さくらがあの透き通った声で短歌を歌ったらどんなにか美しいだろう。また一緒に歌を歌えたらいいなと佳林は思う。でもそれは朋子が言うように叶わない夢なのかもしれない。あの子は自分のように恵まれていないし、自分に比べて身分もだいぶ低いのだろう。近づきたくても近づけない相手。それが上とか下とかではなく、さくらをとても遠い手の届かない憧れの存在のように感じた。

佳林が使用人がよく働いている木材などの加工場や炊事場に頻繁に姿を現すようになったのはそれからだった。使用人の子供達が仕事に混じっていることが多かったのでさくらもまた来ているのではないかと思ったのだ。

「これは。佳林様」

会う人はその度に地面にひれ伏すか大げさに道をあけて横で敬礼をしてくるかだったので、佳林がそうとう仕事の邪魔になっているのは明らかだった。でもそれから何日かしてもさくらには会えなかった。母親に怒られたことが原因でもう二度と来てはいけないことになっているのかもしれない。佳林はそう思ったがそれでももう一度あの子に会いたかった。



佳林が美しい女の人を好きになるようになったのはいつからだろう。最初はその思いは朋子にだけ向けられていた。でも自分が成長するにつれ自分と同じ年ぐらいの女の子でも美しいと思うようになった。だから佳林にとって朋子もさくらも両方とも気になる存在だ。佳林は自分でもあまりの気の多さに呆れてしまう。そしていつか罰でもあたりはしないかと空恐ろしくもなった。

「佳林様。何を思い煩っているのですか?」

縁側に座ってぼんやりと外を見ていたら朋子が傍に座って言った。今日の朋子は白く薄いお粉を頬につけ唇には真っ赤な紅を艶やかにのせている。それが黒い髪に反射して艶めかしてく浮き上がってくるようで佳林は思わず息を飲んだ。この頃の朋子は美しすぎて会うたびに胸が痛くなる。

「別に。何でもないよ」

佳林は自分に沸き起こった感情を隠すように言った。

「この間のあの子ですか」

朋子がさも不機嫌そうに言った。

「え?」

朋子はまるで佳林の心の中が透けて見えるみたいだ。にわかに佳林の心にざわざわと落ち着かなくなる。

「恋煩いってやつですね」

「とも、何言ってるの?」

突き放すような朋子の言い方にてっきり冗談を言っているのかと思っていたら案外朋子が真面目な顔をしている。佳林はますます追い詰められたような気持ちになった。

「私が好きなのはともだけだよ」

朋子は佳林の言葉に今度はにっと笑う。

「佳林様は手の早い殿方のようですね」

そう言って朋子はまるで逃がさないとでも言っているように佳林の両肩をつかんだ。

「とも、私本気で」

「はいはい。分かりましたよ。佳林様」

朋子は子供の戯言と言わんばかりだ。

「またそうやって子供扱いして」

佳林はほっぺを膨らませて抗議する。

「でも佳林様は今朝からずっとそうやってあの子がいないか探してるじゃないですか?」

朋子は佳林の心の中を見透かしたように言う。

「違うよ。あの子は歌が本当に上手なんだ。またあの歌声が聞きたいなって思っただけで恋とかそういうんじゃなくて」

佳林は子供のように言い訳をする。

「そういうのを恋と言うのですよ」

朋子の意地悪な言い方に佳林はうつむく。

「どうしたら信じてくれるの。とも」

それを聞いて朋子は佳林に降伏したようにひざを折ってしゃがみ逆に佳林を見上げた。

「私が悪うございました。お許し下さい」

「とも?」

普段はあまり見せないしおらしい朋子の態度に佳林は少し驚いた。

「佳林様をとられるのがいやで。正直に言ってその子に焼き餅を焼きました」

何でこの人は普通の人が言ったら赤くなるようなことを平気で言えるのだろうと佳林は思う。

「あ、いや・・・」

佳林が何も答えられないでいると朋子はまるで今まで何事もなかったように続けた。

「お詫びに佳林様にいいことを教えてあげます。またあの子がやってくる日があります」

朋子は今度は反対のことを言い出す。

「さくらに会ってもいいの?」

「いいも悪いも佳林様の自由ですから。それに」

「それに?」

「本当にただ歌声が聞きたいだけなのでしょう。だったら何も問題ないことですし」

「う、うん。それはそうだけど」

佳林もそう返すしかない。佳林は朋子の言葉にがっかりしてため息をついた。本当は佳林はさくらになんて会わないで自分とずっと一緒にいてほしいと言われるのを期待していた。だけど朋子から発せられるのは結局そんなことばかりだ。

「ただあの子には気をつけたほうがいいと思いますよ」

朋子は意味深な笑いを浮かべた。

「何で?」

「小田さくらはただものじゃない。いつか佳林様を追い詰めて奈落の底に落とすかもしれません。そんな目をしています。不用意に近づくとやけどしますよ」

お互いに好きだと言い合った直後だというのに朋子の言い方はいかにも素直じゃない。佳林は朋子の複雑な性格にため息をついた。もしかしたらやっぱり自分が言った「好き」の意味も全くその通りに受け取っていないに違いない。そうだとしたら無理やりにでも朋子に佳林の気持ちをわかってもらうしかないのかもしれない。だったらもっと焼きもちを焼かせてやろう。そんな危険な気持ちが佳林の中にうずまいた。

「どうやったらあの子にまた会えるの?」

佳林は言った。

「あの子は歌ばかり歌ってて畑仕事もしない。家の仕事も手伝わないのに何故か宮本家の炊事にだけは手伝いにくるんだそうです。それも決まった日に」

朋子はまるでわかりきったことのように飄々と述べた。

「決まった日?」

「はい。私達がお歌遊びをする日ですね。あの子は私達の歌をずっと聞いていたのです。だから佳林様にも馴れ馴れしくしてしまったんでしょうね」

「じゃあお歌遊びの日にあの子はうちに来るの?」

朋子は何も言わずにうなずいた。



遠くの山々に夕飯をつくるための煙が立ち始めた。煙の一本一本は針のように細く立ち昇り、山のいただきで薄い雲と一体化して吸い込まれるように消えている。桜は今や満開に咲き誇り辺りの緑は霞んで見えなくなるぐらいだ。日はすでに沈んで太陽は燃えかすになった炭のように山の後ろでくすぶっていた。

「佳林様、この景色にふさわしい歌は何だと思いますか?」

朋子が不意にそう言って佳林は慌てて目の前の貝殻に書かれた歌に目を落とした。朋子の髪飾りから白く梳った耳元の美しさに見とれていたのだ。山の背中から発せられる橙色の最後の一筋の光が朋子の紅い髪飾りに柔らかく降り注いでいる。

「夕方、となるとどうしても秋の歌になってしまいますね」

朋子は桜を仰ぎ見てそんなことをぼやきながら一つ歌を選んだ。

「寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば

   いづこも同じ 秋の夕暮れ」

そう読んで朋子は佳林に目配せをした。佳林はさっきからさくらが来ていないかと炊事場から聞こえてくる音にもじっと耳を傾けている。それを見透かしたような朋子の合図だった。

佳林はそっと縁側から降りて履物を履いて炊事場にほうへ近づいていく。振り返ると朋子は涼しい顔で歌を眺めている。今の佳林には朋子の気持ちは全く読めなかった。佳林は意を決して以前さくらに出会ったかまどのある部屋に近づいていく。すると朋子の言うとおり聞き覚えのあるかすかな声が聞こえてきた。今度は火に合わせて歌っているのではなく佳林達がやっているような短歌を読んでいる。入口からそっと顔を出してみると後ろ姿しか見えなかったがまぎれもなくあの子の声だった。話をしてみたいと思った。でもどうしよう。どうしたらあの子と友達になれるんだろうか。

「寂しさに 火の鳥起こして 眺むれば」

入口の横で隠れているとそう歌っているのが聞こえた。かまどの火を前にしてさっき朋子が歌った百人一首の歌を少し変えて歌ってる。そのとき一瞬その情景から歌の続きが思い浮かんだ。

「さくらもえ立つ 春の夕暮れ」

佳林が勝手に替え歌を作って続けた。びくっとしたように少女は振り返った。佳林は今度は警戒させないようににっこりと微笑む。愛らしい笑顔の見せ方は貴族の姫の専売特許だ。ただし、それが身分の低い使用人の娘に通用するかは分からない。

さくらは少し首をかしげた。何で自分の名前を知っているのかと思っているのかもしれない。それとも話せばまた母親に叱られるからどうしようと迷っているのか、一瞬の間ではあったが佳林には長く感じられた。さくらはばっと横に移動すると傍の桶の前で身をかがめた。そこには洗ったばかりの苺が山積みされている。さくらはその中の大きな一つをつまむと、へたの部分をとって佳林に差し出した。まるでおいしいから食べてみてと言わんばかりだ。

佳林の口の中にこの前と同じ甘い味が広がる。前のように途中で捨てられたらかなわないので今度は一口に食べ干した。

「美味しい。ありがと」

佳林がそういうとさくらは少しだけ笑みを浮かべてさっと踵を返した。小走りに戸口のところまで離れると振り返って素早くお辞儀をして出て行ってしまった。

「あ、待って」

佳林は外まで追いかけた。しかし見えたのは走りゆく少女の後ろ姿が見えただけだった。それを見て佳林は悔しそうに唇をかむ。どうやらあの歌姫を口説き落とすのは簡単ではなさそうだ。

「逃げられてしまいましたね。佳林様」

また奥から現れて満足げに笑うのは朋子だ。

「いいもん。あたし諦めないから」

まるで朋子へのあてつけのように言った。

そのときゴウと音をたててかまどの火が燃え上がった。そのうち朋子は何人かの使用人を呼んできて火の管理をさせ、佳林の手をひいて戻った。

それからさくらが宮本家に姿を現すことはなくなった。佳林は寂しい気持ちも募ったがまた朋子といつもの二人の生活に戻ると徐々にさくらの記憶も薄れていった。次第に温かくなる外の空気に二人はよく縁側に座った。時折、穏やかな風に乗って鶯の鳴き声が聞こえる。佳林は朋子に膝枕をしてもらって横になる。そうするのが一番気持ちいいことに佳林もようやく気づいたようだった。佳林はさくらのことがあってからまるで幼子ように朋子に甘えるようになった。

「ねえとも、ともはいなくならないでね」

朋子は佳林の普通より大きなつぶらな瞳の中に自分が映っているのを見つけた。

「佳林様は甘えん坊さんですね」

佳林の言葉をはぐらかすように朋子は言う。

「いなくなっちゃやだよ」

佳林は朋子の腰の部分に抱きつく。

「はいはい。私はいなくなったりしませんよ」

あやすように朋子は言った。

「絶対に」

それは確信でもあり、誓いでもあった。朋子は佳林を絶対に手放さないだろう。例えそれが佳林の自由を奪うことになっても。朋子は恐る恐る佳林の髪の毛に触れた。それは水のようにさらさらと指の間を流れていった。





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