失恋唄








「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

突然、小野小町の有名な一句が頭に思い浮かんだ。辺りには霧雨のような細かい水滴が夜の街を静かに濡らしている。何で百人一首なんて突然思い出したのか自分でも分からない。金澤朋子は車を降りると従者を車に待たせたまま急ぎ足で黒い大きな屋敷の前に立った。建物は数多のかがり火をつけた巨大な石造りで、どれほどの奥行があるのか朋子にも分からない。このどこかにあの子がいる。そう思うとすぐにでも会いたくてたまらなかった。

「お待ちしておりました。金澤朋子様」

応対の黒い服の執事が門の前に立っている。朋子の姿を見るなり恭しく頭を下げた。朋子は目だけで合図する。朋子が急かしているのを見てとった執事はさっそく人の三倍は軽くあろうかというそびえるような木製のドアをゆっくりと開けた。建物の内部は照明もなく暗くて、目が慣れないうちは何も見えない。執事が手にランプを持ってやっと足元が照らされる。床は板敷になっていて両側に等間隔に蝋燭がそえられている。板と板のすき間に白い砂が散りばめられていて、仄かな蝋燭の光に照らされて青白く光っていた。

「今日もご指名は・・・」

前方を歩きながら軽く頭を下げて、執事が聞く。

「佳林ちゃんをお願い」

「かしこまりました」

まるで合言葉がを受け取ったかのように執事はそれだけ聞くとさっさと前を歩いていく。朋子は目立たぬように黒コーデに身を包み、シックなプリーツスカートにどこぞの伯爵令嬢からプレゼントされたトリミング付きのレースボレロを着ていた。ここは上流階層の令嬢しか利用できない女性専用の倶楽部だった。金澤の家はこのあたり一帯の土地を所有する有数の富豪でこの地において知らぬ者はいない。それゆえに金を中心とした欲望と多くの嫉妬や商売敵の狡猾な視線にさらされる。とにもかくにも出来るだけプライベートは包み隠しておくのが無難だ。

地面だけ光に照らされた暗い回廊をひととおり歩いたあとに小さなかまくらのような構造物の前に行き着いた。それはこんもりと丸みがかったテントのような部屋でわざと小さく作ってあるのだろう。ドアも女の子一人がぎりぎり通れるぐらいの小ささだ。執事は何も言わずに手で入口を示し軽くお辞儀をする。

「ありがとう」

朋子はそう言って示されたとおりにドアを自分で開ける。

「とも!」

部屋へ入るなり佳林が抱きついてきた。肩口までのショートカットの黒髪、丸みを帯びたつややかな面に笑顔が転がる。

「来てくれると思ってたよ」

半分笑って半分泣いたような佳林の顔。佳林を抱きしめながら、それがここにいる女の子が自然と身につけるであろう演技なのか、それともこれが素の佳林の姿なのか分からずにとまどう。

「とも、座って。何か飲むでしょ?」

佳林は朋子を座らせると古めかしい布に書かれた注文表を見せる。部屋の中は思ったよりも広かった。低い天井には暗めのランプがついていて真ん中においてある木の切り株をあしらったテーブルを朧げに光らせている。二人並んで座る椅子は一つだけ。それもすぐ後ろは壁になっているから二人密着しないと座れない。本当はもっと広い部屋もたくさんあるのだが今日はあえて狭い部屋を頼んでおいた。

視線を下に移すと顕になった佳林の太ももが見える。オレンジ色のランプに照らされてそれは健康そうな琥珀色をしていたが、華奢な印象は昔から変わらなかった。

「こんな短いスカートはかされて・・・」

朋子が言うと佳林は恥ずかしそうに手で足を隠した。

「大丈夫。寒くないよ」

そう言って佳林は笑う。

「そういうことじゃなくて」

朋子が言うと佳林は分かってるいるようないないような曖昧な表情で朋子を見つめる。その距離が近すぎて本能的に朋子は佳林の手を握った。もう片方の手は佳林の太ももを分かるようにはっきりと触る。

「こういうことされたりとか・・・さ」

いやらしいと思われただろうか。口で言ってもこの子には分からないかもしれない。だからこうした。それとも自分で口に出すのが嫌だったのか分からなかった。

「大丈夫。だってここにくる人、ともみたいな女の子ばっかりだよ」

あたしみたいな客・・・だから危ないんじゃない。そんなねばつくような自分への嘲笑を押し殺して朋子は無邪気に笑う佳林を見る。元々の朋子と佳林の立場は完全に逆だった。

「佳林様」

朋子は佳林のことをずっとそう呼んできた。それは佳林の家、宮本家がまだ古くからの伝統と威勢をまだ維持していた頃。経済的には零落しつつあったものの宮本家は代々子爵の称号を受け継ぐ貴族の家系だった。金澤の家も今は貴族と言ってもそれは父の代からだ。元は卑しい商家の出で父が外国との貿易で一財産をつくりあげた。そして金の力で強引に宮本家と同じ子爵の称号を得た。しかし商売に成功して形ばかりは豪邸に住んで多くの召使を雇っても庶民の卑しさというものは簡単には消えない。朋子の父は貴族の「雅」というものを身に付けさせるため、朋子を宮本家へ奉公に出した。表向きは宮本家の一人娘の佳林の遊び相手としてだった。朋子の父は意地でも金澤の家から商人の卑屈さというものを消し去りたかったらしい。朋子は所詮は平民である父の貴族に対する劣等感を敏感に感じ取っていた。商売で力を得たならそれを徹底して追求すればよいのに何故そうしないのだろう。貴族に媚びへつらう時点では最初から負けたも同然だ。そう思って朋子は父に落胆と失望を感じたが、それが父の恐ろしさの端緒だということにこの頃の朋子はまだ気づかなかった。それでもとにかく佳林と遊ぶことは楽しかった。朋子と佳林はよく百人一首が書かれた貝殻で歌遊びをした。

「あらざらむ この世の外の 思ひ出に」

「はい!」

朋子が歌を途中まで読んだところで佳林が元気よく歌が書かれた二枚の白い貝殻を同時に取り上げる。さっきから佳林が朋子がもっているカードをちらちら見ていたから事前に読む歌が分かっていたからに違いない。

「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」

中に上の句と下の句が書かれた二つの貝を合わせることで一つの歌が完成した。

「佳林様、ずるい」

朋子は笑いながらそれでも佳林の頭を撫でてやる。一つに合わさった貝は真珠色の新鮮な輝きを放つ。ひとしきり美しい曲線を描く蛤を見た後に佳林が上目遣いで朋子を見つめる。黒い髪が赤と白の着物にいっそう映えて佳林の美しさを際立たせる。貴族の家の子供はこんなに美しくて可愛いんだ。佳林の愛らしさは単に身分の違い以上のものに感じる。佳林と自分は元々流れている血脈から異なるのかもしれない。朋子は自分とのあまりの違いにため息をついた。

「ねえ、この歌ってどういう意味?」

佳林がまだ何も知らない丸い頬を傾けた。その顔はあたかもこの世に邪の心など一つもないかのような確信を持って朋子に迫る。

「この歌はですね。私はもうすぐ死ぬのだからこの世の思い出に大好きなあの人にもう一度会いたいという意味ですよ」

朋子は模範的な解釈をすらすらと述べたが、果たして佳林に歌の本当の意味なんて感じることができるのかと訝しんだ。

「へえ。じゃあこの歌をよんだ人は重い病気か何かだったの?好きな人にちゃんと会えたのかな」

あからさまに悲しそうな表情をする佳林に朋子は思わず微笑んだ。

「そうとは限りませんよ。佳林様」

とりあえず作者の和泉式部が好色で恋愛遍歴の多い人物だったことは佳林には言わないでおこうと思った。

「私はもうすぐ死ぬと嘘をついてだから会いに来てほしいってそう歌ったのかもしれませんよ」

朋子は諭すように言って佳林を優しく見つめる。

「そっか。本当に死んじゃうんだったら歌なんて読んでる場合じゃないもんね」

佳林はうんうんと深く納得したようにうなずいた。

「でもそんな嘘ならありだなあ」

佳林は夢見るような目つきで視線を上にした。

「え?」

「だってそこまでしても会いたいってことでしょ。そんなこと言われたら嬉しいもん」

そう言った黒目がちの意味ありげな佳林の表情を朋子は今でも鮮明に覚えている。



「佳林ちゃん」

客としての自分ともてなす側の佳林。立場が入れ替わってやっと朋子はそう呼べるようになった。遠慮しつつも佳林の体に触れられるようになった。だから朋子は一度握った佳林の手はまだそのまま離さないでいた。

「ここじゃ元貴族だったって言っても誰も許してはくれない。家の借金だって佳林ちゃんがここで何年働いても返せるわけないんだよ」

「それは分かってるよ」

佳林は何をいまさらというようにうなずく。佳林の家が背負った借金はそれは莫大なものだった。しかもそれは金澤家に騙されて意図的に作らされたものだ。朋子の父がまさかそんな狡猾なことを考えているなんて思いもよらなかった。佳林の家は朋子の父に騙されて子爵の地位も財産も金澤家に奪い取られた。それだけでなく、多額の借金まで抱えこまされ、肩代わりのために娘を売るように強要された。だから佳林は最初は朋子の物になるはずだったのだ。それを佳林がどこまで知っているか朋子は知らない。

ただ寸前のところで佳林のこの店に逃れた。貴族の娘は高く売れる。売られて身も心もずたずたにされるよりは、このお店で奉公したほうがましだという判断があったのだろう。しかもこの店は良家の令嬢しか客として入ることを許されない。ただし、こうやって喋っているだけで宮本家が背負った借金など到底返すことなんてできない。いずれは誰かに売られることになるだろう。そうなる前に朋子は今度こそは佳林を何とかしたかった。

「私がすぐにでもこんな生活から抜け出させてあげる」

もう佳林を身請けするぐらいのお金は用意した。

「佳林ちゃんが私のものになってくれるんだったら」

朋子の気持ちは愛の告白と比類されるぐらい真剣そのものだった。

佳林は静かに首を横にふった。

「私はともの物にはならないよ」

その時の佳林のあまりにも強い目尻に朋子は寒気を感じた。

「でもね。会いに来て。とも。もしともが会いに来てくれなくなったら、あたし死ぬかもしれない」

言いながら佳林は朋子の体に抱きついてくる。佳林の体から甘い匂いがして柔らかな感触を胸全体で感じる。至近距離で朋子は佳林と見つめ合う。

今度は佳林の方が朋子の腕を離そうとはしなかった。

朋子の脳裏に二人で短歌を読んだあの頃の甘い唄の記憶が蘇った。きれいに整えられた宮本家の庭ではよくホトトギスが遊びにきて佳林の透明な歌声に寄り添うように泣いた。

あらーざらむ

佳林が甲高い声で歌っているのはあのときの和泉式部の唄だ。朋子はあの歌は脅しだと言った。死ぬなんて気を引くための口実にすぎないと思っていた。でも案外そうでないのかもしれない。紅い頬紅を塗った佳林が残酷なほど美しかった。



>>小説一覧>> >>すっぴん歌姫>>



inserted by FC2 system