奈落の因縁





「あ、春の雪」

朋子が馬車の窓を見てそう言った。もう桜が咲く季節だというのに今日は朝から冷え込んだ。そういえば先程からちらりちらりと白いうぶ毛のようなものが風に舞っている。それはまるで桜の花びらのように優雅にまるで冬の名残を楽しむかのようにあたりを踊っていた。

「雪遊びできるかな」

隣に座っている佳林が目を輝かせて言う。

「まさか。そこまでは積もりませんよ」

そう言ってにっこりと微笑む朋子の目は佳林の麗しい着物姿に吸い寄せられた。くっきりとした赤と白の細かい刺繍からはまるで天使のような神々しさが浮かび出ているようだ。そして黒髪から着物までの首元の白い肌はお粉をつけているわけでもないのに色白で匂いたつような若い色気に見ているだけで罪悪感を感じてしまう。

「とも、どうかした?」

「あ、いえ。寒くはありませんか?佳林様」

朋子は我に返って佳林を見た。

「大丈夫」

佳林はそう言って朋子に体を寄せた。

「帝劇も久しぶりだな。いつ以来だっけ」

上目遣いで朋子を見る佳林の距離が近い。二人乗りの馬車の密室がこんなに艶かしく感じるなんて思ってもみなかった。

「えと。あの時以来ではございませんか。シェイクスピアの劇にご一緒させていただいたとき」

朋子はひと呼吸おいてから応えた。

「ちょっと。とも何でそんなに他人行儀なの?」

「そんなことはないですよ」

思わず朋子は佳林の左手を握った。うまくはぐらかしたつもりだったが熱をもつ手が伝わってますます怪しまれたかもしれなかった。

朋子は佳林とともに帝国劇場にて行われるモーニング娘。の公演を観覧しにでかけてきていた。帝劇の切符をとれるなんて一部の大金持ちか貴族に限られる。その帝劇の公演の中でもモーニング娘。は世界的にも有名な歌劇団でその切符となるとさらに希少となる。代金も他の劇団に比べて遥かに高くモーニング娘。は一般庶民には全くと言っていいほど手の届かない存在だ。それを朋子の父が方々へ手を回してやっと手に入れて、朋子はこうやって宮本家のご令嬢を招待することができている。でもそれは奉公する娘のためというより宮本家への賄賂みたいなものではないかと朋子は思う。ただ、帝劇で行われるモーニング娘。の公演なら宮本家の令嬢をお誘いしても恥ずかしくはない。その点だけは末端の貴族としても朋子は誇らしかった。それに佳林とは宮本家ではいつも一緒だったが、たまにはこうやってお出かけもしてみたかった。ただし、佳林のような上級貴族の令嬢は他の貴族の目もあってさすがに二人きりというわけにはいかない。今日も佳林は朋子の他に従者二人を連れていた。下級の貴族仲間では自身が貴族なのにも関わらず上級貴族に従者扱いされて不満に思っている者も多い。朋子もその例にもれず宮本家では佳林のすぐ傍に仕える付き添いとして何かと利用されてきたが、逆に朋子はその点には満足していた。

 馬車を降りると帝劇の前にある広大な停車場に二人は降りた。外はすでに雪はやんでいた。曇天の空の下、まばらに植樹されたばかりの背の低い木があるものの、あたりは広陵とした石畳を敷いて巨大な帝国劇場の建物がそびえ立っている。その威容は初めて見る異国の巨大な遺跡のように見るものを圧倒するようだった。見ると何台かの馬車が泊まりそれぞれ高貴な衣装に身を包んだ貴婦人らが降りてくるのが見える。

「佳林様。ご挨拶なされたほうがよい方はおられますか?」

朋子は言った。佳林と一緒にいる以上自分も宮本家の一員として見られる。貴族同士の争いは表向きの雅さとは違って狡猾で嫉妬と怨念の塊だ。いらぬ敵は作らないほうがいい。

「知らない。特にお父様もお母様も今日のことについては何もおっしゃられないし」

佳林はそう応えた。ただし佳林はそんな意識は皆無のようだ。

「朋子お嬢様。今日は佳林様自らが挨拶に行かねばならぬような家はございませぬ」

先を歩く女の従者の一人がそう応えた。

「お席も姫様の席が最上席でございます」

「やったあ」

佳林が無邪気に喜ぶ。改めて朋子は宮本家の家柄が自分よりも遥かに格上であることを思い知らされる。帝劇に来ている何百人の貴族の中で宮本家というのはきっと最上位に位置するのだろう。父は死ぬような思いでやっと下級の貴族にたどり着いたというのにこれから宮本家と同じ位置になるには後どれだけ時間がかかるだろう。というよりそれまでに人間の寿命のほうが先に来てしまいそうだ。しかし朋子の父ならそんなことを一瞬にして何とかする方法を編み出しているのかもしれない。父が宮本家を見つめる視線は朋子が佳林を見る狼のようにぎらついた目にどこか似ていた。

 劇場の中に入るとすでに多くの人が入り始め人々の小さく上品な挨拶や笑い声がかすかに時間差をおいて聞こえてくる。それは巨大な劇場に木霊してこの空間の静謐さをかえって際立たせていた。見上げるとドーム型の天井には淡い金箔を背景に吉祥天が羽衣をまといあたかも天使の遺物を残すように昇天していく様子が描かれている。壁や柱はギリシャ神話に出てくる神殿のように白亜の生まれたばかりのようなみずみずしい光沢を放っていた。周囲は物々しさというよりまるで現実から別世界に入り込んだような高揚した空気に包まれていた。

 最上席とは二階の最前列で少し出っ張りになっているような場所だった。朋子は佳林の隣に腰掛ける。佳林は目を輝かせていたが、貴族らしく上品にじっと前を見つめていた。

「何か緊張する」

佳林は朋子を見て笑った。佳林が自分以外のことに夢中になっている。自分が用意して自分が誘ったモーニング娘。の公演に佳林が来てくれているのにもかかわらず朋子は激しく嫉妬した。自分が恐ろしく理不尽な思いを抱いているのに違いないのはわかりきっていた。

朋子は舞台が始まってもずっと佳林の横顔を見ていた。しかし佳林はそんなことお構いなく前方に釘付けになっている。朋子はそんな佳林に仕えるしかない。身分や立場の違いはあるし、今の佳林を朋子がどうこうすることなんてできない。朋子は自分の欲望を押さえ込もうとした。しかし欲望は暴力的な危険水域にまで高まっていた。佳林が言うことを聞かないなら聞くような状況に追い込んでしまえば良い。

「宮本佳林」を自分の力で奈落の底へ堕としてみたい。

朋子の心の中にたった一つできた真っ黒な悪魔の点が次第に墨汁のように広がっていくようだった。

もし貴族の姫が遊女のように弄ばれたとしたら。欲望が堰を切ったように止めどなく朋子の心を覆い尽くしてくる。そしてその姫君が自分の目の前であどけない無防備な笑顔をさらしている。もしかしたらそれは現実に出来るのかもしれない。考えただけで身震いするような罪の意識と危険な快楽にぞっとするほど寒気がした。

「とも、どうしたの?」

気づくと佳林が心配そうに朋子を見ている。気がつくとすでに公演は終わっているようだった。二人の従者も迎えに来て傍でひざまづいている。

「あ、佳林様。大丈夫です」

朋子は我に返って言った。

「何かぼーっとしてるみたいだけど?」

「大丈夫です。ちょっと引き込まれてました」

朋子は自分の感情が悟られないように必死に応えた。

「確かにすごかったよね」

佳林はまだ夢見るような目つきで言った。佳林の少し大きめの特徴ある目が朋子を虜にして離さない。

「はい。感動して言葉もないくらい」

朋子は再び佳林の美しさに目眩がする。自分の物にしたい。さきほどの欲望がにわかに首をもたげてきて表面的には佳林を直視する余裕が全くなくなった。

「だけどオペラグラスでないと見えないくらい遠かったし今度はもっと近くで見てみたいな」

「はい。じゃあ次は最前列の席を用意しておきますよ」

今の朋子には佳林の言いなりの言葉しか出てこなかった。

「んー。最前列もいいけど」

「はい?」

「次は会ってみたい」

佳林の言葉に朋子は意表を突かれたようにぽかんとした。

「佳林様。さすがにそこまでは無理です」

モーニング娘。のメンバーに会うことは演出家や警備の人間くらいで普通の人間が会うことなんて出来なかった。それは朋子がどう手を回したって不可能に違いない。

「いいよ。別にともにそんなことさせようっていうんじゃないし」

佳林は笑って言った。

「佳林が会いたいって言ってるって伝えてきて」

佳林が従者の一人に言った。

「かしこまりました。全員には都合がつかないかもしれませんが。どなたにお会いになられますか?」

「そうだなあ。あの真ん中で歌ってた子に会いたい。鞘師里保っていう子」

佳林はさらりと応えた。

「佳林様。そんな無理なことを言っては」

「いえ朋子お嬢様。お気遣いはご無用でございます」

佳林を制止しようとした朋子を従者がさっと手をあげる。

「宮本家のご令嬢が会いたいと言っている以上、先方もきっと悪い気は起こしません。私が交渉してまいります。ここでお待ちください」

そう言って従者はさっと赤い絨毯が敷き詰められている階段を上って行った。

まさかそんな無茶なことが通用するはずがない。最初から何の段取りもなしに急に会いたいなどと言って、しかも鞘師里保はモーニング娘。の中でも人気も実力も頂点に位置する歌い手だ。朋子には佳林が一体何を考えているのか分からなかった。当の佳林はまるで楽しみがもう一つ増えたように微笑みながら緞帳の降りた舞台を見つめていた。

「鞘師里保に会ってどうするのですか?佳林様」

「あの子って私と同じ年なの。別に何かしようってわけじゃない。けど会って話してみたいな」

輝くような佳林の黒目を見ていると朋子はいつか佳林が言っていた自分は歌手になりたいと言っていたことを思い出した。今は自分の佳林への気持ちが強すぎて佳林が何を望んでいるのかわからなくなっているのかもしれない。

「ともも行くでしょ?会えるなら」

「それは佳林様が行くなら私はお傍について参ります」

そう答えると佳林は満足そうに笑った。ただ朋子の心の中ではモーニング娘。側が聴衆が会いたいなどとそんな無茶な要求にこたえるはずがないという半信半疑な気持ちもある。ただし、それは意外にも早い時間に結論は出た。

「鞘師里保が佳林様にお会いになるそうです」

従者は舞い戻ってきてそれが当然だと言わんばかりにそう伝えた。

「分かった。じゃあさっそく」

佳林は今度は朋子と付きの従者を先導するように帝劇の赤い絨毯の上を歩き出した。その姿は美しくも宮本家の令嬢にふさわしく堂々としていて高貴な家の雅というのに溢れていた。周囲にはたくさんの貴族の子息、令嬢に中にあっても特別に若い佳林の姿は帝劇の中にあってもよく目立った。

朋子はいつもは佳林の世話役をしている手前、佳林に主導権を握られて少し悔しい気持ちもあった。しかし朋子には「鞘師里保」と「宮本佳林」の対面をどこか見ものだと思う気持ちもあった。鞘師里保は平民出身ではあったが若くして歌と踊りに優れモーニング娘。の頂点に立った。一般民衆にとっては希望の星のような存在だ。一方「宮本佳林」は生まれながらにしてやんごとなき存在であるばかりではなく、類まれなる美しさと気品に満ちている。鞘師里保は本来なら公演後に聴衆に会うなどと無茶なことを要求されて内心は面白くないに違いなかった。それに貴族という身分にも相当な穿った見方をしていそうだ。ただ宮本家の令嬢の要請なら断るわけにはいかなかったのだろう。

朋子達の一行は関係者にしか入れない出演者用の扉を開けてもらい中へ入った。途端に巨大なゼンマイじかけのような機械やレバーがむき出しとなった通路を通る。緞帳の上げ下げや舞台装置の調整をここでしているのだろう。帝劇の職人は佳林と朋子の姿を見ただけで通路をあける。恐らくは自分達の着物姿と付きの従者を見ただけで上級貴族ということが分かるのだろう。こういう芸能の世界ではそれこそ身分ではなく実力がものを言う世界だと信じてきたが、現実にはそうではないことを朋子は大人達の様子から感じ取った。

鞘師里保は他のメンバーはすでに劇場を去ったというのにわざわざ佳林のために待っていてくれているらしかった。

従者が部屋を教えられているらしく帝劇の案内係と一緒に控え室のような部屋を指し示した。

「佳林様こちらです」

朋子は佳林の後に続いて部屋へ入った。部屋の中には鞘師里保が一人でいた。洋装ではあったが薄茶の色の薄いセーターとスカートを履いている。鞘師里保は美しくはあったが大スターというよりさっぱりしていて純朴な少女の香りがした。

「あなたが宮本佳林ちゃん、さん?」

最初に話しかけてきたのは里保の方だった。里保はまるで珍しいものでも見るようにこちらを凝視している。

「そうだけど?」

一瞬どちらがスターとファンなのか分からなくなる。

「良かった。一度会ってみたかった」

里保の方がそう言った。

「私のこと、知ってるの?」

「知ってるも何も」

そう言って里保はテーブルの上に置いてある分厚い百科事典のような雑誌を見せてきた。

「全世界貴族令嬢名鑑」とある。里保はしおりを挟んである頁を開くと大きく「宮本佳林」と書かれていて大きく見開きの写真付きで佳林の紹介がされていた。

「これ佳林様」

朋子は驚いて記事をしげしげと読む。写真は意外と新しく今年の新年の祝賀会のときに国王妃殿下と撮られた新聞用の公的なものだった。朋子は自分は載っていやしないかと探そうと思ったがやめた。たとえ掲載されていたとしても自分のような下級貴族は佳林よりもずっと小さい扱いであることに違いないのだ。

「へえ。貴族のお姫様。写真より綺麗だ」

里保はそう言って佳林を周囲をぐるぐると回って眺め回す。こうなるともう完全に立場は逆転だ。佳林の方がまるで見世物みたいになっている。

朋子は平民のくせに里保を生意気をだと思ったが佳林のいる手前何も言えない。里保は徐々に佳林との距離を縮めていく。朋子にはそれが気が気じゃない。そして里保が手を伸ばして佳林の着物に触れようとした瞬間だった。

「鞘師さん」

佳林がそう言って里保はまるで子供のようにびくっと手を引っ込めた。

「鞘師さんに触れてもいい?」

唐突に佳林がそう言った。

「いいよ」

里保は改めて佳林と向かいあった。二人の間に緊張感が走る。どう考えても楽屋まで追いかけてきたファンとスターの関係には思えない。平民のスターと貴族の姫君。二つの力がぶつかり合う。明確な対立が露骨に現出し、両者から放たれる激しいオーラが重なり合うように拮抗した。

里保が右手を差し出して佳林が両手でしっかりと握った。二人とも微笑を浮かべていたが朋子は里保も佳林も心の中では笑っていないと感じた。その不敵な笑いに朋子が初めて二人のことを怖いと感じた。



「鞘師里保ちゃんと握手させてもらえた。やっぱり頼んでみるもんだなあ」

佳林は帰りの馬車で夢見心地でそう言った。さっきまでの殺気だった佳林はもうどこにもいない。

「佳林様、本当に鞘師里保と握手したかったのですか?」

「当たり前でしょう。モーニング娘。だよ。とも何言ってるの?」

逆に朋子のほうが質される。

「あ、もしかして朋子も鞘師さんと握手したかったんでしょ。させてもらえばよかったのに」

「私は別に鞘師さんのファンじゃありませんから」

朋子はすました顔で言った。

「ふーん。無理しちゃって」

馬車はそのまま朋子の家に向かった。佳林がそう希望したのだ。すでに伝えてはあるものの「宮本佳林」を迎える朋子の家はその準備にてんてこ舞いだろう。

「ともの家、久しぶりだなあ」

佳林はさきほどから変わらないきらめくような大きな瞳を涼しげに見せている。佳林は帝劇でモーニング娘。を見れた上に鞘師里保にも直接面会が叶いとても上機嫌だ。しかし朋子は佳林のその無邪気な笑顔の裏に計算されたものを感じるようになった。人は佳林の姿の眩しさに憧れ、そしてその高貴な身分に恐れを抱く。だからこそこの世界にいる人間はみんな佳林のことを無視できない。他の上級貴族のように佳林は権威をたてに横柄な態度をとったり未熟なわがままで周囲を悩ませることもない。十代の半ばを迎えたばかりというのに宮本佳林は全てを計算しつくしているように見えた。

馬車は白い搭のそびえる朋子の家の門前に到着した。朋子の家は元々あった平屋を西洋式に作り替えたもので、突貫工事であったため西洋の古城の模造品のような感じがして朋子はあまり好きではなかった。ただ自分にも絨毯のひかれた床にベッドと机のある西洋式の部屋をもつことができた。そこには白人の女の子の人形や動物を象ったものをたくさん置いていると今より幼かった佳林がとても喜んで一生ここに住みたいと言ってくれた。そのことだけには満足している。

「ともの家はいつ見ても広いなあ」

佳林が庭園で手を広げてくるくると回転しながら言う。佳林の赤い飾りかんざしから垂れ下がる金のビラカンがゆらゆらと揺れて朋子にはそれがやけに艶かしく映った。宮本家ではいつもすましたお姫様である佳林のそんな天真爛漫な姿を見せられると動物的な欲動を呼び覚ます。自覚はしていても朋子はそれを押さえつける術を知らない。

「この先はどうなってるの?」

佳林はさらに朋子の家の庭の外れのところまで勝手に歩いていく。

「あ、そっちはもう隣の家です」

周囲には召使の官舎やら貧しい農家の家々が連なっている。いわばここは貴族が住まう場所でなくバラックに突然現れた成り上がりの城なのだ。

「佳林様」

朋子が呼んでも佳林はそのまま進んでいく。

「佳林様。これ以上行っては。このあたりは貧しいものがたくさん住んでいてあたりの雰囲気もあまりよくありません」

朋子は佳林の両肩をぐいとつかんで言った。

「だって歌声が聞こえたから」

佳林がそう言って朋子ははっとなった。そういえばこの先にはさくらの家がある。

「とにかく戻って私の家で休みましょう。美味しいものを用意してあります」

朋子がそう言うと佳林はやっと笑みをほころばせた。

佳林はまた両手を水平に広げて緑の芝生の上を気持ちようさそうに踊った。それは天から突然舞い降りた天使が初めて地上に降り立った喜びを見ているようだった。その純粋なあどけなさは返って朋子に劣等感さえ抱かせる。この頃の自分の心は自身の欲動との対決ばかりだ。もう自分にはそんな無垢な気持ちはなくなってしまったのかもしれない。

「ねえ、とも。ともの家には人を閉じ込めておく部屋があるの?」

佳林が入口のドアに向かいながら突然そう言った。

「だ、誰がそんなことを言ったのです?」

「ただの噂。金澤家は女中に厳しい家だから失敗した人は罰として閉じ込められちゃうんだって」

佳林はそう言って笑う。

「ありませんよ。そんなもの。誰がそんなこと言いましたか?佳林様」

朋子はらしくなく語気を荒げた。監禁室など確かにない。でも佳林は自分の中の不気味な欲望をそのまま見抜いているようで朋子は恐ろしくなった。

「だからただの噂だって」

佳林は呆れたように言った。二人は真っ白な神殿風のつくりになっている玄関の正面までたどり着いた。朋子が玄関を開けて佳林を招き入れようとした。

「でもさ」

そう言って後佳林は突然立ち止まってしまった。

「もしそんな部屋があったらともは私を閉じ込めたいって思う?」

びくっとして朋子が振り返ると佳林は再び両手を開いて朋子を誘うように言った。あたりには誰もいない。その姿がやけに扇情的で艶かしく映る。

「何を馬鹿な。私は佳林様に仕えている身。そんなことするはずが・・・」

「ともこそ何言ってんの。ともは私の家来じゃないでしょ?」

朋子の激しい返答にも身じろぎ一つせず佳林は応えた。

「家来じゃなくてもそんなことはしません。さ、早く中へ」

朋子はドアを開けた。中では黒のワンピースにエプロンつけたメイドが数人待機していて、二人の姿を見ると恭しく頭を下げた。佳林は自分の中の「何か」を知っている。そうとしか思えなかった。でもその「何か」は朋子は自分の心の中でさえ口に出すことはできない禁忌のものだ。佳林と朋子は靴を脱いで中へ上がる。朋子はさっさとリビングに向かっていったが、佳林は朋子の家の使用人にも丁寧に挨拶した。例え西洋式の部屋に通されても貴族として洗練された気品とマナーを備えた佳林は時おり微笑を浮かべながら悠々とテーブルについた。

「佳林様。しばらくお待ちください。私も少し準備がありますので」

朋子がそう言うと行儀よく小さく座っている佳林が今度は従順にうなずいた。

「きれいな庭」

不意に視線を横に移すとつぶやくように佳林が言った。朋子の家のリビングには先ほどの雪とはうってかわって暖かな日差しが入り込んできていた。庭には背の高い五色椿がこちらを見下ろすように赤と白の入り混じった花をいくつもつけていた。

「良ければ庭でもご覧になりませんか。宮本のお家とは比べ物にはなりませんが、うちの庭もだいぶ春の花が咲き始めております」

急に一人にするのが可哀想になった朋子は思わずそう言ってしまった。

「じゃあ見てみようかな」

佳林は快活にそう言うと着物をなびかせてそそくさと庭へ降りていった。その様子に朋子は何とはなしに胸騒ぎのようなものを覚えた。しかし佳林は年下とはいえもう子供ではない。朋子の家の庭を見て回るぐらい別段危なくはないだろう。そう思って朋子は厨房に走った。金澤家は佳林が訪れるというだけでまるで国賓クラスの訪問がなされるような騒がれぶりだ。厨房には使用人のほとんどが集まり、佳林に出す紅茶とケーキに入念な精査をしている。形上は佳林は朋子の友人としての立場ではあったが、とても常人としての扱いではない。

 金澤家がいかに宮本家という破格の貴族に羨望とコンプレックスを抱いているのが分かる。ただしそう思う朋子も完全にその金澤家の一人にすぎない。朋子はなまじ佳林と一緒の時間が多いだけに佳林に対する気持ちは単に身分や家柄だけの感情にとどまらない。佳林を募る気持ちも決して自分の思い通りにはならない佳林を見ていても全ては自分より遥かに高い位置にいる「宮本佳林」を見上げているのと同じことだった。

 準備は勿論メイド達が中心になってやってくれたが、佳林に出すものとなると自分の目でしっかり確認しなくては気がすまなかった。特に今日は隣国から特注で輸入した佳林の好きなジャスミン茶を用意している。

 熱した急須にジャスミンの葉を小さじで入れると香ばしい匂いがふっと流れた。それに朝から洋菓子の職人に作らせた苺のケーキを切り分ける。佳林に出すものをしっかり準備しなくてはという意識と外で待っている佳林が気になって意識があちこちに飛ぶ。

 自分としてはて早く準備したと思っていたが、結構待たせてしまったかもしれない。メイド達が運んでくるより前に朋子は佳林を探そうと庭に駆け下りた。ところが、リビングの前の花壇には佳林の姿はない。もしかしたら待ちくたびれてどこかへ行ってしまったのかもしれない。さきほどの胸騒ぎがよみがえってくる。不安になった朋子はその奥にある北欧の湿地帯をあしらった水式庭園のところまで行ってみた。それでも佳林の姿はどこにもなかった。湿地の中に人工の木道が敷かれており、途中に休憩小屋がある。

「佳林様!」

そう呼びながら朋子は着物を濡らさないように裾をあげながら小屋の中まで入った。中には誰もいない。小屋から先は湿地はなくなっていて、そこからは芝生の斜面を登るともう隣の家だ。朋子の頬に冷たい風があたった。それは朋子の中に冷たい感情を呼び覚ました。斜面には小道があってそこを登るとさくらの家がある。さきほどの佳林の行動はもしかしたらさくらの家を探していたのかもしれない。朋子はすでに確信をもって斜面を登り始めた。もう着物が地につくことすら気にならなかった。

 さくらの家は古い木造家屋だ。庭といった洒落たものはなく、鶏小屋と小さく区割りされた畑が広がっているだけだ。農家の家に入ることに躊躇なんていらない。ここ一帯に住む人間にとって金澤家は領主様も同然だった。引き戸を開けると一階には人の気配はしない。中は真っ暗だったが柱や屋根の切れ目、いたるところから太陽の鋭い光線が容赦なく突っ切るように入ってくる。闇と光の極端なコントラストがしんとした室内をいっそう静かにさせていた。多分さくらの両親はどこかへ出かけているのだろう。静まり返った室内からそう感じた。朋子は室内にそっと入って下を見る。地面は砂地になっているのがかすかに見える。よく見ると自分が通る前に歩幅の小さい袴の跡がついていた。進んでいくと二階へ登る木製の階段にさしかかかったところでそれは終わっている。

「佳林様、やめてください」

突然泣き声のような叫びが上から聞こえてきた。

さくらの声だ。間違いない。朋子はそのまま耳をそばだてる。

「私に逆らっていいと思ってるの?」

今度は佳林の声が聞こえる。いつもの無邪気な佳林の声とは全く違った。何かに取り憑かれたように残酷で冷静な声だった。

「触らないで。佳林様が汚れます」

さくらの声と今度はガタゴトと音が聞こえた。朋子の体に一気に緊張が走った。階段を途中まで登ったところで立ち止まる。朋子はそこで金縛りにあったように動けなくなった。動かないほうがいいと自分がそう念じたのか体が勝手にそうなったのかはわからない。とにかくじっとしたまま耳だけに神経を集中させて聞こえくる音全てに注意を払った。その後、二階は静寂そのものだった。でも朋子はずっと何かが聞こえているような気がしてならない。あの二人が二階で何をしているのか。じっとしていると二階の部屋から二人の息遣いが聞こえてくるような気がする。でもそれは風の音の幻かもしれなかった。

 突然二階の引き戸が開かれた。立っているのはさくらだ。少し乱れた服を胸のところでおさえるようにして駆け下りてくる。そして朋子と至近距離で目があった。さくらは驚いた顔を見せたがそのまま何も言わずに朋子の横を通り過ぎていく。

「佳林様」

その名前を叫んで朋子は階段を駆け上がる。今更何故自分がこんなところでじっとしていたのか分からなくなる。

「佳林様、大丈夫ですか」

強い調子で言いながら朋子は自分で自分に自答する。何故自分はすぐに佳林を助けにいかなかったのだろう。それとも自分は何かを期待していたのだろうか。佳林がさくらに対してある一線を超えるという。朋子はあまりに邪悪な思念にとりつかれていることに自分で身震いした。急いで二階の部屋に入ると仰向けに倒れている佳林が目に飛び込んでくる。着物は乱れ白い足があらわになっていた。

「佳林様、一体何があったのです」

朋子は佳林を助け起こした。佳林の真っ白な顔が何でもないように軽く笑みを見せる。その顔が美しすぎて一瞬悪魔のように見えた。

「別に何でもない」

飄々と佳林は答える。その唇はもみ合った跡なのか赤く少し切れている。

「さくらにやられたの?」

「分かってないな。私から逃げられると思ったら大間違い」

朋子の質問には答えずに佳林はそう言ってふっと笑った。今まで見たことがないような冷酷な表情をしていた。この子はついに因縁をつかんでしまったのだと思った。きっちりと合わさった歯車が軋むように動き始める。因縁をつかんだことは朋子も同じだった。ずっと父から背負わされてきた残酷な運命。それがにわかに光を帯びてあたかも正当性をもった偉大な事業のように起動し始める。「宮本家」を破滅させる。そして「宮本佳林」を我が物にしてしまう。朋子が宮本家に入り込んだ目的が今、おごり高ぶった宮本佳林を救うという一点の「正義」をもって遂行の途に着く。

外へ出ると、さきほどから曇天はあたかもその事実がなかったように、まっさらに晴れ渡り朋子も佳林も今日、雪が降ったことなどとうに忘れていた。



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