復讐の始まり






朋子がドアを開けると案の定、出迎えのボーイも誰もおらず閑散としている。確かに真昼間からこんなお店にくる客もいないのだろう。朋子は構わず店の奥に進んでいった。ある程度進んだところで土間から一段上がったところに勘定用の台が置いてあって、中年の女がキセルをくゆらしていた。足を投げ出して見るからに横着な態度だ。客のいない時間帯だからか朋子が来たことに気付く様子もない。朋子は近くの柱をコンコンと鳴らした。

「あ、これは金澤様」

女は急に姿勢をかえると板に書いて並べてある女郎の表を見た。

「今からでもお相手の出来る子はおります」

今度はにたにたと不愉快な笑みを浮かべて言った。

「いえ、そうではなくて」

朋子は佳林以外を指名したことは一度もない。この女は客の名前を覚えてはいてもそういうことはからっきし頭に入ってこないようだ。

「今日はこのお店の主人に会いに来たの」

朋子がそう言うと女はようやく合点がいったようにうなずいた。

「あ、そうでございやしたか。お嬢様に御用で。二階にいらっしゃいます。どうぞあがってくださいまし」

言葉だけなら丁寧だが金にならぬと分かれば一気に顔をしかめる。朋子は何度会ってもどうもこの女には不愉快以外の感情をもつことができない。

二階に上がると絨毯が敷き詰められた廊下になっていて一番奥に部屋が一つだけあった。朋子がノックすると「どうぞ」と先ほどとはうってかわって澄んだ声が返ってきた。

朋子が中に入ると西洋式の机に腰掛けた和服姿の少女が立ち上がった。朋子と年齢も背格好も同じくらいだろうか。真っ黒な髪をきちんと結わえて赤と白の椿の模様の入った優雅な着物を着ていた。

「由加、働き始めたって聞いたから大丈夫かなって思ってたけど。案外さまになってるね」

朋子が近づいていくと、机の上には何かの計算書やら契約書みたいな書類が並んでいる。

「全くやっと女学校出たと思ったら、女郎屋の女主人なんてうちの父親もどうかしてるよ」

由加は苦笑いして言った。

宮崎由加は朋子の女学校時代の同期生だ。由加の父は貿易商をしていていくつか会社や店をもっている。この女郎屋も由加の父が始めたものだ。

「でも普通やらせる?こんな仕事」

由加は全く納得できないようでぶつぶつと文句を言っている。

「まあまあそれだけ期待されてるってことで」

朋子は慰めるように言った。

「それにさ。常連客の前でこんな仕事はないでしょ」

「あ、ごめん」

由加はバツが悪そうに口を押さえた。

「いいって。それより私に話したいことって何?お店の経営なんて私にはさっぱり分かんないよ」

朋子が難しそうな書類を眺めて言う。

「そうじゃなくて。佳林ちゃんのことなんだけど」

由加にそう言われて朋子ははっとなった。今一番出されたくない名前だった。

「ごめん。何も言ってなくて。私実は佳林ちゃんには」

そう言いかけてとどまる。元々身請けの話を裏で進めてくれたのは由加だった。ただ当の本人に拒否されてしまっては元も子もない。由加にはそれをまだ伝えてなかった。

「そうだったんだ」

由加の落ち込んだ表情がさらに朋子をへこませる。

「だから当面は身請けの話はなかったことに」

朋子がそう言うと由加はあからさまに眉を曲げてさらに悲しそうな表情をする。

「いや、別に私だってまだあきらめたわけじゃないよ。由加にだってこれだけ協力してもらったんだもん。佳林ちゃんのことはちょっと持久戦でいこうかなってそれだけ」

朋子は気まずい空気を振り払うように言った。佳林だって今の立場のままじゃいつ誰に買われてどんな目に合わされるか分かったもんじゃないはずだ。今は強情に断っていてもいずれ朋子に口説き落とされてもおかしくはない。

「でもそうもゆっくりもしていられないみたいなの」

由加が深刻そうに言った。

「え?」

「実はね。今度モーニング娘。さんがこのお店を貸し切ってくれることになったんだけど」

「へえ。すごいじゃん」

かの有名なモーニング娘。が貸し切るってことは相当な収入になるろうし、店の大きな宣伝材料にもなる。

「リーダーの道重さゆみさんから直接お手紙をもらったの」

そう言って由加は一枚の便箋を朋子に渡した。手紙の内容は宮本佳林をモーニング娘。の専属として相手を務めるようにということだった。文字や文章の間に絵や記号まで混ぜてやけに崩した文体だったが、相手が相手だけにその要求を断ることはできないのだろう。

「佳林ちゃんがモーニング娘。の専属って?」

朋子が由加を見つめる。

「一日中、モーニング娘。の誰かの傍でいろんな接待やおもてなしをしろってことだと思うけど」

「接待?おもてなし?って」

朋子が詰め寄る。

「さあ。そりゃ要求されたらどこまでもって・・・苦しい。やめて」

気がついたら朋子が由加の首をしめあげていた。

「はあ・・はあ・・。だって仕方ないでしょ。そういう仕事なんだから。それにさ」

朋子が手を放すと由加はやっとのことで言う。

「手紙が来てるの道重さんだけじゃないの。これは鞘師さんの代理人からなんだけど」

そう言って別の一枚を朋子に見せた。これは道重さゆみが書いた口語体の書き下ろしではなく正式な依頼書だ。とにかく鞘師里保が店に着いたらすぐに一体一で佳林に会わせるように命令している。

「佳林ちゃんって一体モーニング娘。に何したの?」

「それは・・・」

思い当たることがあって今度は朋子のほうが言葉につまる。きっとモーニング娘。の公演に二人で見に行った時に佳林が里保に無理やり会いに行ったことだろう。いくら貴族でも客が会いにいくなんてどう考えても無謀なのだ。きっとそのことにモーニング娘。は怒っているのかもしれない。もしかして佳林に復讐を?悪い方に考えるときりがない。

「やっぱ佳林ちゃんに言って私、身請けさせてもらうよ。もう時間がない」

朋子が言った。

「それが」

由加がまだ渋い顔をしている。

「何?」

「朋子に伝えてた身請けの金額ね。あれ本当は桁が一つ多いの」

「え?だって由加、あの値段だって言ったじゃん。それにうちの家だってそこまで借金を佳林ちゃんに背負わせたわけじゃないし」

元々、宮本家の没落は朋子の家である金澤家が仕組んだものだった。しかし破産させた後にさらに借金をさせたわけではない。

「佳林ちゃんね。朋子の家から借金だけじゃなくてあれからいろんな人に騙されて売られてきたみたいなの。朋にはとてもそんな金額用意できないだろうからって思って私が勝手に安くしたの。それが父にばれてうちの店潰す気かって」

由加が頭をかかえて言う。まさかそんなことになっているとは思いもよらなかった。元貴族の遊女なんて鬱憤のたまった大衆の格好の餌食だ。しかもモーニング娘。の各メンバーはその力を行使するだけの十分な財力を持っている。このままでは佳林がひどい目に合わされることは確実だ。

「由加の事情は分かった。で私、どうしたらいい?どうしたら佳林ちゃん助けられる?」

「佳林ちゃん連れて逃げて」

由加が朋子をまじまじと見つめて言った。その時点で由加が本気だということが分かった。

「逃げるってどこへ?」

「どこか遠いところまで。それしか佳林ちゃんがモーニング娘。から逃げられる方法はないと思うの」

由加が言った。遊女が体を弄ばれる毎日に絶望して脱走を図ったなんて事件は巷にあふれている。ただしほとんどが数日のうちに官憲に捕まってしまっていた。どこの世界でも一度落ちてしまったものがそこから這い上がるそう簡単ではない。とすればもう逃げるというのが一番確実な方法かもしれない。

「しばらくの間、かくまってくれるところを探してある」

由加が声を潜めて言った。



外はまだ薄闇がさしていて、生ぬるい小雨がずっと降り続いていた。先ほどから馬の嘶きだけが孤独に響いている。遊女屋の屋敷の門柱のかがり火が馬車の荷台に敷き詰められている藁を明々と照らす。由加が店を出入りする藁の運送業者にそっと朋子と佳林を町外れの隠れ場所まで乗せていってくれるように頼んでくれた。

「いい?町外れのこの洋館まで行ってくれるように頼んであるから」

由加が地図を渡してくれた。

「分かった。ありがとう」

荷台から顔を出して朋子が言う。これから当分の間由加には会えないかもしれない。もっとちゃんとお別れをしたかったが、気づかれるとまずい。

「佳林ちゃんも気をつけて」

由加の言葉に佳林が小さな顔をすっと出して弱々しく笑った。

馬車がぱかぱかと歩き始める。ゆっくりと遊女屋が離れていく。佳林に会うために通いつめた店だったが佳林も朋子も、もうここにくることはないのかもしれない。佳林のいない店に愛着は感じなかったが、由加の優しい顔が思い返されて由加にだけはまた会いに来たいと朋子は思った。

小雨だった雨は次第に勢いを失い、雲の切れ間から月が覗いた。しばらくは木造の貧しい長屋の続く寂しい町を馬車は歩いていた。そのうち、そんな家々もなくなり欝蒼と背の高い雑草の生い茂る原っぱを淡々と馬車は進んでいく。

月明かりに照らされて時折佳林の顔が白く照らされる。狭い藁の間ということもあって朋子と佳林はほぼ抱き合うようにして荷車に乗っている。佳林は黒目をぱっちりとあけて体を朋子に預けている。朋子の身請けを断った佳林のことだ。最初はこんな逃避行に佳林は抵抗するとばかりに思っていた。だけど佳林はあっさりと朋子についてきた。

「朋にお金のことで迷惑がかからないなら」

佳林はそう言った。

藁の間から垂れてきた水滴で佳林の髪はぐっしょりと濡れていた。睫毛にかかっている前髪を朋子はゆっくりとかきわけてやる。

「佳林ちゃん、大丈夫だからね」

朋子の声に佳林はわずかにうなずく。

「朋、誰かがついてきてる気がする」

佳林が瞬きもせずに不安そうに朋子を見つめている。

「大丈夫。誰にも気づかれてない」

朋子はそう答えるが朋子にも何か確信があったわけではない。そのうち荷馬車は大きな湖の近くを通りかかった。道の周囲は林に囲まれて真っ暗闇なのにも関わらず、湖の水面だけがおぼろげに白くもやがかかったように見える。そのとき人がすっと息を吸い込むような音が朋子の耳元で聞こえた。

朋子は思わずは息を潜めたが、よく耳を澄ましてみても規則正しい馬と車輪の音が聞こえてくるだけだ。確かに人の気配が湖がからしたのだ。息を殺して朋子は湖を見てみた。先ほどの白いもやは相変わらずだったが今度はそのもやが紫色に不気味な色に染まってきている。目の錯覚でそうなっているのかどこからか色のついた光に照らされているのかは分からない。

そのとき湖から叫び声のような異様な音が鳴り響いた。

「怖い。人の鳴き声がするよ」

佳林が急に朋子にしがみついた。

「佳林ちゃん、大丈夫だって。こんなところに人なんていやしないんだから」

獣とも人とも区別もつかない悲しげな声の震えだった。

「きっと風が岩か何かにあたって共鳴しているだけ」

朋子は青い顔をした佳林を必死に安心させようとする。だが横の林を吹き抜ける風までも人の泣き声のように響きわたる。朋子はこんな場所を抜け出したいと少し顔を出した。湖の中心にはまだ紫のもやがある。でもそれは単なる月光の悪戯ではなく、今度ははっきりと形が分かるようになってきている。それはみるみる四隅が伸びてきて人の形になった。

朋子はそれを見てすぐに首をひっこめた。何か得体の知れないものがこの湖にいるのだと思った。いくら落ち着こうとしても手足ががくがくと震えた。

「とも、どうかした?何か見たの」

「なんにもない。佳林ちゃん、もうすぐ着くから」

佳林を落ち着かせるのに朋子も必死だった。

荷馬車はしばらく走ると湖のほとりにある古い洋館の前で止まった。由加に教えてもらったのと同じ場所だ。

「では由加様のお言いつけ通り、この館へご案内させていただきました」

御者はそれだけ言うとすぐに寂しい道を引き返して行った。

「こんなとこ、人住んでるの?」

佳林が不安そうに建物を眺める。

洋館は相当年月の経っているものらしく、漆喰は禿げて土埃が年月をかけてこびりついて、とても人が住んでいるようには思えない。辺りは湿気がひどく空気がまといついてくるようだ。ただでさえ藁の中でぐっしょりと濡れてしまった服を一刻も早く乾かしたい。

朋子は錆び付いている呼び鈴を鳴らした。木製のドアは叩いてもグッグッと吸い込まれるような音しかしない。朋子はため息をついた。その時、金属の鍵を解除する大きな音が響いた。ドアがいかめしい音を響かせながらゆっくり開いていく。中には腰を折り曲げた老婆が一人立っていた。

「ようこそ。おいでくださいました。お話は由加様より聞いております」

しわがれた声なのに空気にうまくのるというか、声がよく通っていて不思議なほど聞き取れた。老婆は灰色の頭巾をかぶり、うつむいているせいでどんな表情をしているかはわからない。そのせいで老人と言ってもはたしてどれほどの年なのか、朋子にもさっぱり見当もつかない。ただ強烈に印象に残るのが、鼻が何かの病気にでもなったのか赤く異常に膨れ上がっていることだ。それはまるで頭巾の中から醜い肉の塊が覗いているように見えた。この人は老いて縮んだのではなく、老いて不気味さを増幅させたのかもしれないと朋子は思った。

「どうぞ中にお入りなさい」

老婆は手招きをして二人を中に入れた。内部は電気がきているせいかきれいで明るい。大広間には何十人も一緒に会食できるような長方形の広いテーブルが置いてあった。

「この建物は一体なんなんですか?」

朋子は勇気を出して聞いてみる。

「元々はさる貴族の別荘であったものですが、今ではその方もお亡くなりになり、こうして私が住んでいるだけになってしまいました」

老婆は黒いローブから出ている頭巾をことさらかぶって顔を隠すようにする。

「何だか気持ち悪い人だね」

佳林の小声に朋子も無言でうなずく。老婆の異常に隆起した鼻だけがランプに照らされて怪しく光っている。腰の曲がり方からしても相当な年齢になっているに違いない。しかし動きも動作も何かぎこちない。

「お二人とも、あちらで暖炉で服を乾かしください。着替えも用意してあります」

隣室には暖炉の火が煌々と燃えていた。老婆は二人を案内すると食事の準備をすると言って大広間の隣にある厨房へと入っていった。

「あの人信用できるの?」

部屋へ入ると佳林がぐっしょりと濡れたワンピースを脱ぎながら言った。艶かしい白い肌が露になる。

「多分。由加のことだから大丈夫だと思うけど」

朋子は佳林の姿を横目で見ながら言った。

「でもあんまり長居はできないかもしれない」

「そうだよね」

あの老婆はどうも胡散臭すぎると朋子は感じていた。それは佳林も同じようだった。

「行くあてあるの?」

「大丈夫。近くに知り合いの家がある。少し歩かなきゃだけど」

朋子は言った。少しといってもここから数時間は歩かなければならないだろう。もう馬車は使えないし、出来ればここには出来るだけ長く潜伏しておきたい。でも佳林の安全のほうがもっと大事だ。

「私なら大丈夫。お店で掃除したりいろんな物運んだりして結構体力ついたんだから」

佳林は力こぶを作って笑う。佳林には遊女屋へ堕とされたことへの悲壮感も屈辱もあまりないようだ。朋子はそのことに安堵しつつも佳林の本当の胸の内というのもはかりかねた。

佳林は用意された緋色の長襦袢を羽織った。鮮やかな色彩に朋子は貴族と呼ばれていた時代の佳林を一瞬思い出す。遊女屋では暗い明かりの下で佳林に会うことが多かったせいかもしれない。

「大きさもちょうどいいんだけど。何だか逆に気持ち悪いな」

佳林は帯を締めながら言った。そういえば朋子に用意された着物もそうだ。由加が用意しておいてくれたのだろうか。でも清純な由加の印象からしてあの醜い老婆が由加とどう関係するのか理解しがたい。

「お嬢様方、お食事の準備が出来ました。用意が整いましたらこちらへお越し下さい」

ドアの向こうから老婆の声が聞こえる。そういえば二人とも食事ともとらずに荷馬車に揺られっぱなしだった。緊張感も少しほどけてお腹もすいている。

部屋を出るとだだっ広い大広間には、晩餐会で使うような木製の長細いテーブルが置かれていた。二人の食事は隅にだけぽつんと置かれている。パンとバターに漬物にしたような肉片と茹でた馬鈴薯とスープ。朋子は最初警戒していたが、佳林がいただきますと言ってもぐもぐと食べ始めたので朋子も仕方なく口に入れてみる。おいしい。意外といける。老婆が近くにいたため、警戒して口には出さなかったが、どれも塩味がほどほどにきいていて、さっぱりしたシンプルな味付けだった。

「お口にあえばよいのですが」

老婆は二人を一瞥するとまた厨房に下がっていった。お腹がすいていた二人は危ないものではないとわかると無心に食事を始めた。

「ところでお二人は湖のあの鳴き声は聞かれましたか?」

厨房は二人からは離れたところにあるのに声がはっきりと聞こえた。朋子は馬車から見た奇妙な紫色の物体と岩に共鳴するような音を思い出した。

「ええ。私達も来る途中で聞きました」

「そうですか。やはり」

厨房からは刃物を研ぐような音が聞こえる。

「言い伝えがありましてな。昔、貴族に悪戯された若い娘がこの世をはかなんで湖に身をなげたのです。それ以来その娘の泣き声がこのあたりで聞こえるのですよ」

食事をしていた佳林の動きが止まった。フォークを宙に浮かせたまま考え込むようにしてうつむいている。

「質の悪い貴族で、その娘の家から無理にさらっていこうとしたみたいで」

老婆の声が厨房から響いた。

「佳林ちゃん、どうかした?」

「ううん。何でもない」

佳林はそう言ったが、朋子の頭にあるのは一人の少女の面影だった。きっと佳林も今同じ人のことを思い出している。「小田さくら」。佳林がさくらの家に忍び込んだあの事件以来、さくらは忽然とどこかへと消え去った。家も庭も宮本家の持ち物だったため、宮本家の没落とともにさくらの家も人出に渡った。さくらの親は宮本家での仕事もなくなり、娘を売ったという話もあったがよくわからないままだった。

「このあたりでは貴族が金に物を言わせて村の娘を無理やり連れ去ったりそれはひどいことがありました。ここら一帯にはその娘の無念の気持ちが漂っているのですよ」

老婆はそう言ってくつくつと笑った。

食事の後、二人は四階にある客間に通された。窓は年代物らしくすりガラスのように不鮮明だった。おぼろげに建物の明かりに照らされた雨が針のように降っている。外は木々に墨でもかけたように真っ暗で雨以外のものは何も見えなかった。

佳林はベッドに腰掛けると沈み込んだように下を向いている。小刻みに震えてる手が痛々しい。

「佳林ちゃん」

そう言って朋子は佳林の隣に腰掛けた。

「とも、さくらのこと覚えてる?」

佳林が言った。上目遣いで見る佳林の表情は明らかに怯えてる。

「あんまり覚えてないけど」

言いながらも朋子の脳裏にさくらの顔が浮かんだ。佳林が勝手に忍び込んださくらの部屋から必死な形相でさくらは飛び出してきた。あのとき、佳林がさくらに何をしたのかはよく分からない。ただそのときのさくらの表情は今の佳林の青ざめた顔に不気味なほどよく似ていた。

「さくらは今どうしてる?」

「分からない。さくらの家は今売りに出されてるし」

朋子がそう言うと佳林は急に頭を抱えた。

「あの湖の鳴き声はさくらの幽霊だ。きっと私に復讐しようとしてるんだ」

佳林の声は上ずって途切れがちになる。

「考えすぎだよ。湖の声は風が鳴らしてるだけだよ。それにそもそも幽霊なんて」

「とも」

佳林が朋子の声を遮った。

「こんな手紙が届いたの」

佳林が懐から一枚の紙を取り出した。二つ折にされた古びた藁半紙を朋子は受け取る。開くと紙の中央に一言だけ書かれている。



−復讐の始まり



毛筆で書かれたらしきその文字だけが、小さく紙の中央にのっている。ただし、丁寧にしたためられたその言葉からは、何か強烈な意志を感じずにはいられない。見ているだけで鋭利なナイフを突きつけられているようだった。

「佳林ちゃん、これ?」

「誰が出してきたのか分からない。ただ宛先も宮本佳林様とだけあって。何で私があのお店にいるのを知っているのかも何の復讐かも分からない」

佳林は怯えているのか泣いているのか分からないような表情をしていた。

「でも」

佳林は恐怖に歪んだ顔を朋子に向けた。

「私を恨んでるとしたらさくらしかいない」

佳林の悲痛な声を聞いて、朋子は佳林がさくらに何をしたのかもう尋ねる気持ちにはなれなかった。たとえさくらが佳林のことを恨んでいても、さくらも誰も知らないところに逃げてしまえばいい。自分が佳林を守れればそれでいいと強く自分に言い聞かせる。でも、目の前の佳林は朋子が思っている以上に追い詰められていた。

「ねえとも、さくらはもうこの世にはいないの?」

白い顔でそういう佳林に朋子のほうが戦慄した。

さくらは近所の家だ。生きていれば何かの噂は入ってくるものだ。それが何も聞かないのもさくらがもうこの世の人ではないからかもしれない。でも、この手紙は所在不明のさくらの存在をはっきりと示しているようにも感じる。朋子は底知れない怖さに顔がひきつる。

「分からない。でも生きてるんだったら逃げちゃえばいいし。亡くなってるならもう姿なんて現さないよ」

朋子はわざと顔に笑みを浮かべて言う。きっとこの洋館が自分達を恐怖に陥れているのだ。明日、朝日を浴びてここから出ればそんな怖いことを考えなくなる。

「佳林ちゃん、もう今日は寝よう。明日になったらもう全部忘れてるよ」

佳林はうつむいたままこぶしを握りしめている。

「でもこの手紙は消えない」

「そんなのただの悪戯でしょ。さっさと燃やしちゃえばいいのに」

朋子はそう言った。ただし朋子自身も単なる悪戯とは思っていない。佳林は諦めたようにその手紙を元通りに折ると、ゆっくりと懐の中にしまいこんだ。

「もし燃やしてしまったら、さくらに何されるか分からない」

佳林が虚ろな目でそう言った。

一体貴族の時のあの自信満々な宮本佳林はどこへいってしまったのだろう。女相手の仕事だからそこまでひどいことはされていないにしても、お金で買われる存在に違いはない。

あの時のさくらは佳林にどんな要求をされても言うことを聞かざるを得なかった。お金次第でどうにでもされてしまう今の佳林の状況と驚く程似ている。さくらが自分と同じような境遇におきたければ、すでにその復讐は果たされていた。ただしそうしたのはほかならぬ朋子の手によってだった。

雨がさらさらと降り続いていた。部屋の明かりを消してランプだけになると、真っ暗だった外の様子がうっすらと見える。朋子がベッドに入ると佳林は見計らっていたかのように同じ布団に潜り込んできた。そのまま朋子の腰に手を回して絡みつくようにしてくる。強すぎるくらいの力だったが朋子にとってはそのぐらいのほうが心地よかった。

窓の外には建物の明かりがあるだけで、すぐ向こうは欝蒼とした森林が広がっている。外にいるのは動物以外にはありえないが、何かが森の向こうからやってくる気がして思わず朋子は窓の外を睨みつけていた。

「とも、どうかした?」

上半身だけ起こしている朋子の腰に佳林は抱きつくようにしている。上目遣いで朋子を見る佳林の顔をランプの色が紅く染めた。

「何でもないよ。佳林ちゃん」

朋子は佳林の黒髪をゆっくりと撫でた。美しさだけは貴族のときも今も全く遜色がない。佳林を追い詰めて自分の物にする。欲望の権化のような自分の行動がまんまとこの世界ではまかり通っている。朋子には、罪悪感を感じるというよりも神にも悪魔にも見過ごされているこの状況が不思議だった。そのとき青白い炎のようなものが窓の外を通り過ぎた。

−私のことを忘れないで−

念のような言葉が聞こえてきた。その言葉を拒否するように朋子は何も言わず布団に潜り込む。佳林がするする体を上らせて朋子と至近距離で顔をあわせた。佳林は真っ黒な瞳をこちらに向けていた。

気がつくと外も室内も静寂に包まれている。そう思ったのは柱時計の音だけが定期的に聞こえてきたからだ。佳林はすっかり寝入っている。外はまだ暗い。夜明けまではまだ相当時間があるだろう。もう一度寝ようとしたときにコツンという音がどこからか聞こえた。最初は気にならないくらいの小さな音だった。気にせずに眠ろうと目をつむったときにもう一度コツンと音がする。怖くなった朋子は今度は逆に佳林の体に身を寄せる。

「とも、起きてる?」

朋子は佳林の体に伸ばそうとしていた手を急いで引っ込めた。

「明かり、点けて」

佳林に従って急いでランプの火をつけた。そしてベッドを出て蛍光灯のレバーを上に押しあげた。ジッ。鈍い音がして蛍光灯の光がついた。部屋の様子に特に変わったことはなさそうだった。

「佳林ちゃん」

朋子が佳林を呼ぶと、佳林は怯えた顔でしっと言うと床に視線を落とした。

コツン。今度は佳林の立っている真下で音がした。佳林が泣きそうな表情で朋子に飛びついてくる。

しばらくしてまたコツン。今度は対角線上の離れた場所だ。どうやらこの音は一箇所で鳴っているのではなく、次々に床下を移動しているみたいだ。

「とも、どうしよう」

佳林が小さな体を必死に朋子にくっつけてくる。

「さくらの復讐が始まった」

佳林が虚ろな目をしてそう言った。

「佳林ちゃん、大丈夫だから」

朋子は言った。確かにこの音は何か変だ。こんなに定期的に響いてくる音はねずみや動物の仕業ではない。もちろんたたりや亡霊でもない。きっと誰かが階下の部屋で長い棒で天井を突いているのだ。ただし何の目的かは分からない。

「迷惑な人だな。下に言って文句言ってこよう」

朋子は言った。この洋館には朋子達とあの老婆の三人しかいない。そう考えれば犯人は明らかだ。

「行くの?」

佳林は体を硬直させて言う。

「あのお婆さんが怖がらせようとしてるだけだって。あの湖の話もきっと嘘だ」

朋子は言った。

「二人で行けば絶対大丈夫。さくらの幽霊なんていないんだから」

朋子は佳林の手を優しく握った。もう一つの手で天窓を開けるために置いてある長い棒を手に取る。どうせあの老婆が自分たちを怖がらせようとやっていることに違いないとは思う。

廊下は天井の明かりに電気が通っているようで薄く橙色に照らされている。朋子達は足音を響かせないように小走りに進む。廊下の突き当たりは階段になっていて下の階に通じていた。佳林はまだ不安な顔をしていたが血色はだいぶ戻ってきている。

「とも、あそこ」

佳林が階下の廊下を指差した。そこには青白い光が廊下の奥からはみ出している。何だろう。朋子が階段を降りようとするとぐいと強い力で引き戻される。

「佳林ちゃん、大丈夫だって」

「何か嫌な予感がする」

佳林が階下の光を見つめて言った。

「とにかくあの変な音の原因だけは突き止めないと」

佳林を説得しようと言った言葉だが、朋子の言葉に佳林は反応しない。そのままぼうっとしたように下を見つめたままだ。朋子は佳林の手を引っ張った。佳林は諦めたのかそのまま朋子についてきた。

朋子は階段の壁に張り付くように降りると恐る恐る階下の廊下を覗く。すると奥のほうにドアが半開きになっていて、そこから青白い光が漏れ出してきていた。ちょうど朋子達の真下の部屋だ。廊下の天井の電気は故障したのか消えてしまっている。

朋子は意を決して踏み出した。中で老婆が天井をついていたらその現場を取り押さえてしまおうと思った。朋子と佳林はいよいよ足音さえ立てないように進む。すると光の漏れたその部屋から何かが聞こえてきている。人の声だ。リズムを刻んで歌っているように思える。佳林がぎゅっと朋子の腕をつかんだ。



火の鳥は歌う。

暗い空を明るくするまで。



朋子は思わずぎょっとなった。

「いやあ」

佳林はそう叫ぶと朋子の手を放した。そして元きた廊下をすごい勢い走っていく。

「佳林ちゃん、離れたらだめ」

朋子は走って追いかける。廊下の逆側にある薄暗い階段の踊り場のところでようやく佳林を捕まえた。

「さくらの幽霊だ。仕返しに来たんだ」

佳林は髪を振り乱して半狂乱になって言う。いきり立っているわりには佳林の目は虚ろでどこを見ているのかよく分からない。すでに佳林の精神状態が限界にきていた。

「佳林ちゃん、落ち着いて。さくらの幽霊なんてそんなのあるはずない」

「ともはあの歌、聞こえなかった?覚えてるでしょ。私の家で」

「覚えてる」

確かにあの歌はさくらが歌っていた歌に間違いない。それに歌声もさくらの透き通った声質によく似ている。ただし、今はそんなことを考えている場合じゃない。

「佳林ちゃん、逃げよう。とにかくこんなところから出なきゃ」

朋子は建物から脱出しようと階段を降りかけた。

そのとき、鈴の音のようなものが下から聞こえた。続いてまるで呪文を唱えているような獣か人間か分からないような唸り声が近づいてくる。

そして朋子は階下から白い着物を着た黒い髪の少女がゆっくりと階段を上がってくるのを見てしまった。少女が顔をあげる一瞬前に朋子は目をそらした。二人同時に階段を駆け上った。とにかく逃げるしかない。朋子の中にはそのことしかない。もう今自分たちが何階にいて屋敷のどのへんにいるのかもわからなかった。

二人で廊下を走る。そして行き止まりになって壁に行きあたった。

「どこか隠れる部屋はない?」

朋子は言いながらあたりにあるドアノブを回す。どの部屋も鍵がかけられていて開かない。ぐずぐずしている間にあの低く不気味な声が近づいてくるような気がしてならない。鈴の音とお経のような唸り声がリズムを刻んて耳鳴りのように頭に残る。そこから恐怖の感情が沸き起こる。

「開いた。ここなら隠れられる」

佳林がドアを開けた部屋に急いで駆け込む。そこは何体もの石像や彫刻などが置かれている。気味の悪い部屋だったがとにかく隠れるところはここ以外にはない。近くに古びた洋ダンスがあったので二人はその中に入って扉を閉めた。

佳林の体が可哀想なくらい震えている。

「佳林ちゃん、大丈夫だから」

朋子がそう言っても佳林は首を横にふってがたがたと体を震わせた。朋子が暗闇の中で佳林をしっかりと抱きしめた。佳林の髪油の甘い匂いがふっと立ち込める。小さな佳林の体が夢中でしがみついてきた。

「とも」

泣きそうな声を出した佳林を朋子はしっと止めた。耳を澄ますと歌声が聞こえてくる。か細くて今にも消えてなくなりそうな声なのに徐々に大きくはっきりと聞こえ出した。



歌姫は一人孤独に歌いだす

北の果ての大地から

誰も知られずやってきた

復讐のためにやってきた



佳林が小さく叫び声をあげると再び朋子のすそをつかむ。ひきちぎるぐらいの強い力だった。歌声は確実に近づいてくる。



歌姫はいつも一人

いつも一人で歌ってる

いつも孤独に歌ってる



女の断末魔の叫びのような甲高い音をたててドアが開いた。歌声がやんで足音だけが聞こえる。袴を履いているような足音がからんと響く。朋子と佳林は洋ダンスの中で必死に息を潜めた。やがて足音は、朋子達の前を一度通り過ぎると再びドアを開けて出て行った。歌声も呪文も消えて静寂だけが残った。

しばらく時がたった。もう何も聞こえないがどこで待ち伏せしているかは分からない。二人はいつまでも身動きがとれない状況だった。

「佳林ちゃん、ここを出よう」

朋子は小声で言う。

「でも、まだ」

「大丈夫。例えさくらがいても佳林ちゃんのことは私が守るから」

朋子はそう言って扉を一気に開けた。二人は目の前にいる真っ白な着物を着た少女に顔がひきつった。

「お久しぶり。二人ともそんな顔しないでよ」

目の前にいるのは幽霊ではない。間違いなく人間の小田さくらだった。

「さくら・・・ちゃん?」

佳林は泣きはらした顔から不思議そうな表情に変わった。

「やっぱりね。うまく変装したと思ったかもしれないけど。まさかあんな老婆に化けてるなんてね」

朋子がさくらを睨みつけて言った。

「当たり。うまく変装したつもりだったんだけど」

さくらは舌を出してばつの悪い顔をする。さくらは白装束に身を包んで赤い髪留めをつけていた。まるで神社の巫女のようだった。

「残念だったね。二人とも」

さくらは二人の前に胸を張って立ちはだかった。

「それでうちらのことをどうするつもり?」

朋子はさくらにゆっくり近づくと背の低いさくらを見下ろすようにした。

「復讐の始まり」

さくらはそう言って笑った。

「どうやって復讐するつもり?佳林ちゃんに何かしたら私、許さない」

朋子は語気を荒げた。

「遊女屋に連れ戻す。復讐はそれから」

「そんなことさせない」

二人は一歩も引かずに向かい合った。

「とにかくここからは出て行く」

朋子はそう言って佳林の手を引いて部屋を出ようとした。突然まばゆい光が二人を襲った。

「宮本佳林だな」

大勢の男達が部屋へ入ってきた。

「店の主人から被害届けが出ている」

「だって由加は?」

朋子の顔は青ざめた。

「由加ちゃんの名誉のため言っておくと。由加ちゃんのお父様と憲兵隊にはあたしが通報した」

さくらがにこやかに笑って言った。

「何の権利があって」

朋子は怒りに震えた。

「あたし、あのお店で働き始めたの。花魁の監視役として」

さくらがそう言った瞬間、朋子がさくらに掴みかかろうとした。

「ともっ」

佳林が朋子を押しとどめた。

「窃盗罪で逮捕する」

男が朋子の手をつかんだ。同時に佳林も誰かに腕をつかまれた。振り返るとさくらが佳林の手を握ってにっこりと微笑んだ。男達が朋子をそのまま部屋から連れ出そうとする。

「ともに触らないで」

さくらの手を無理やりふりほどくと、佳林が必死に男の手に噛み付いた。

「いてっ。何するんだ」

憲兵が思わず佳林を振り払ったのと同時に朋子をつかんだ手を放す。

「ともっ。逃げて」

佳林の叫び声に朋子は一瞬躊躇した。

「逃げて。私を助けに来て」

「佳林ちゃん」

佳林の必死の形相が朋子に冷静を与えた。どうせもう二人では逃げられない。朋子が花魁を窃盗した罪で捕まってしまえば、佳林を永久にあの遊女屋から救い出すことは出来ないだろう。朋子は一気に駆け出した。

「待て」

部屋の前に集まっていた憲兵達の不意をついて朋子は廊下をかけていく。階段を駆け下りて洋館の玄関まで一気にたどり着いた。何人かが追いかけてくる声は聞こえたけど、待ち構えている者は誰もいない。朋子は暗闇に向かって走りながら平和だった宮本家での奉公のことを思い出した。自分の愚かさと悔しさに涙が溢れ出す。全ては自分が招いたことだった。

近くの湖は今日の夜の出来事など何もなかったように暗く静まりかえっている。闇は漆黒であたり包み、金澤朋子の姿も行方も全てを覆い隠していた。



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