最後の希望





馬車の蹄の音が地獄の始まりを告げるように絶望的に響いた。佳林は着物の上から縄でぐるぐる巻きに縛られている。口には布を詰め込まれて目隠しまでされた。きつく結ばれた縄は遠慮なしに手首に強く食い込む。まるで罪人のようなひどい連行のされ方だ。自分はそれほど悪いことをしたのだろうか。誰かを傷つけたわけでも物を盗んだわけでもない。あまりの理不尽さに思わず目隠しの布に涙がにじんだ。

「佳林ちゃん、金澤さん。まだ捕まってないみたいだよ」

横からさくらの声が聞こえた。

その内容にほっとするのと同時に隣に座る得体の知れない存在に背筋が凍る。

「無視?つれないなあ」

黙っているとさくらが佳林の耳に息をふっと吹きかけた。

「これから佳林ちゃんがどうなるか。あたし次第なんだけど」

さくらの脅しだ。佳林は黙ってさくらがどんな人間なのかずっと探っていた。佳林の脳裏にはあの従順な召使だったときのさくらの記憶しかない。でも佳林にはさくらの冷たい言葉とは裏腹に「小田さくら」から感じる空気はそれほど凶暴ではない。話しかけても大丈夫な気がした。

「本当に小田さくらちゃんなの?」

一瞬沈黙が続く。

「そうだよ」

さくらはそう応えた。きっと自分の名前を呼ばれたことに面食らってる。佳林はそう感じた。

「今までどこにいたの?さくらのこと、ずっと探してたけど全然見つからなかった」

宮本家が借金で没落する寸前まで佳林はさくらのことを探していた。しかしあらゆる手を尽くしてもさくらの消息はどうしてもつかめなかった。

後ろ頭を触られる感触があって佳林は目隠しを外された。

さくらは黒い髪を後ろに束ねて、白いぶかぶかの着物を羽織っている。ランプに照らされた血色の良い肌つやがさくらが生身の人間であることをはっきり示していた。顔立ちは以前会ったときよりも大人びて巫女のような姿のせいか前より俄然美しくなったように見えた。

「北の国」

さくらは佳林を見つめてそれだけ言った。北の国の話は佳林も聞いたことはある。汽車で丸一日以上かかる遠い国だが国交がないため佳林も行ったことはない。王政府は認めたがらないが、文明がこの国よりずっと進んでいると聞いたことがあった。

「あたしは戻ってきたの。佳林ちゃんに復讐するために」

さくらの顔は自分の言ったことに逆に驚いているようだった。怒りを募らせているようには全く見えない。

「もう私には何も残ってないよ。家も身分もなくなったし。だからもう復讐なんて」

ちゃんと話し合えば復讐をやめてくれるかもしれない。佳林はそんな淡い希望を持った。それぐらいさくらの表情はまだ穏やかだった。でもそれは次の一言でかき消された。

「佳林ちゃんがまだ残ってる」

そう言ってさくらは佳林を抱き寄せた。何を考えているのか分からないさくらの目に怯える自分の姿が映っている。馬車は雨の中を走り続け、縛られている佳林はここから逃げ出すことなんて到底できない。

「私をどうするつもりなの?」

「どうしようかな」

さくらは爛々と輝く瞳を近づけた。

「言っておくけど。佳林ちゃんには宮本の家もない。金澤さんもいない。もう佳林ちゃんをあたしから守るものは何もないんだよ」

さくらは自分を怖がらせようとしているんだと佳林は思った。そう感じたのは佳林にも少しの余裕が出来たからかもしれなかった。「小田さくら」は幽霊みたいに存在するかどうかも分からなかった相手だから怖かった。でもきちんと目の前に存在してしまえばあまり恐れる必要もない。

「私だって店にとっては大事な商品。商売道具、傷つけたらまずいんじゃない?さくらだってあのお店に雇われてるんでしょ?」

佳林がそう言うとやっとさくらは佳林を解放した。佳林とさくらの距離が元に戻る。

「そんなこと言ってられるのも今のうち」

さくらは拗ねたようにそう言って窓のほうを向いた。



遊女屋に連れ戻された佳林は、さくらに後ろに縛られた腕を押されて無理やり歩かされる。

いくら痛いと思ってももさくらには従うしかない。

「面白いところがあるんだ。多分佳林ちゃんも知らないところだよ」

さくらは少し得意気に言うと店の奥まで佳林を連れて行く。一番奥には古ぼけた洋箪笥が置かれていた。扉にはいかめしい鳳凰の姿を木彫りしてあっていかにも豪奢な風情を漂わせている。しかしその箪笥が何に使われているのか全く分からない。佳林もその存在の意味も分からずにいつもその横を通っていた。

さくらがその扉を開けると、薄っぺらいはずの奥が意外と広い。そこは箪笥に見せかけた隠し扉になっていた。

「入って」

さくらが佳林の体を押す。中に木製の螺旋階段が見える。この店は二階しかないはずなのに、階段を上っていくと三階、四階と永遠に上までつながっているようだった。さくらは佳林をひったてるように押しながら後ろをついてくる。この店にこんな上の階があるなんて知らなかった。手が使えず手すりをもつこともできないので足元がおぼつかなくなる。やっと最上階らしき部屋までたどり着く。雨染みがついた襖をあけると、畳の部屋の奥に十文字に板が張り巡らされた牢屋みたいな部屋があった。

「何ここ?」

佳林が驚きと恐怖にのけぞる。

「女郎屋に監禁牢があるなんて当たり前でしょ。ここに逃げ出した女郎を閉じ込めておくの」

さくらはそう言って佳林を無理やり部屋の中へ押し入れる。

「ほら。中に入って」

牢屋に佳林を無理やり促す。

「い、いやだ」

佳林は抵抗して逃げようとする。ここに入ってしまったら二度と出られなくなりそうだった。それにこんなにわびしい最上階に誰も来てくれそうにない。

「ここって昔は監禁以外にも拷問とかやってたみたいだよ」

「拷問・・・」

畳の部屋をよく見てみると、壁に紐のついた棍棒みたいなものから先の尖った刃物のようなものがたくさんかけられている。何に使うのかは全く分からなかったが、佳林はそれを見ただけで血の気がひいた。

「電気、使ったりするんだって」

さくらがその棍棒を一つとってゆっくりと佳林に近づいてくる。

佳林は泣きそうになって首をふる。

「大人しく牢屋に入るんなら何もしない」

さくらが冷静にそう言った。

佳林は絶望的な気分になりながらも観念して牢の中へ入った。

「痛かったでしょ。縄ほどいてあげる」

さくらが縄をといてくれたので手は自由になった。それでもこれから自分がどうなってしまうのか不安でいっぱいになる。さくらは縄をほどいた後もしばらく佳林から離れない。

「この着物、あたしが選んだんだ。ちょうど大きさもぴったり」

そう言って肩から腰をゆっくりと撫でる。佳林はうなだれたまま何も反応しない。さくらは佳林が無抵抗なのを確認するように今度は佳林の黒髪を触ってきた。

「きれい。佳林様って呼ばれてたときと同じ」

さくらはさらさらと指の間に髪を通す。至近距離でさくらと佳林は向かい合った。さくらの目は思ったより大きく深緑色に光を放っている。佳林は何を考えているのか分からないさくらの目尻の奥を見つめた。

「私をどうするつもりなの?」

佳林はもう一度尋ねた。

「それはこれからのお楽しみ・・・かな」

さくらは祈るように両手を組んで可愛らしく笑った。さくらなんて貴族のときには自分の意志でどうにでも出来る存在だった。それが今では佳林の全てを握られているようで憎たらしい。

「ともが・・・ともが絶対に助けに来てくれる」

佳林は抵抗するように必死に言う。

「さあ。それはどうだろ。金澤さんお尋ね者になっちゃったしね。佳林ちゃんを助けに来る余裕なんてきっとないよ」

さくらはあざ笑うように言う。

金属の軋む音がして目の前で牢屋の鍵をしめられた。さくらがちゃんと閉まっているか何度も確認している。罪人になったような屈辱感が佳林を惨めにした。

「あたし、隣の部屋で寝るから。逃げようとしたって無駄だよ」

さくらが格子から佳林を見つめて言う。

佳林は諦めたようにそのまま床に突っ伏した。横目でさくらを見ると淡々と布団をしいて寝る準備にかかっている。さくらにはもうどうやって抵抗したって無駄な気がした。さくらは自分に復讐しようとしている。さくらの気持ちを変えさせるためにはどうしたらいいんだろう。泣いて謝ったら許してくれるだろうか。謝って仲良くなろうと言えば少しは復讐心を捨ててくれたりはしないかと佳林は必死に考え始める。

「眠れないんなら一緒に寝てあげようか?」

さくらが突然こっちを向いて言った。薄暗闇でも爛々と光る目がはっきり見えた。

「いい。何されるか分かんないし」

色気。というものがもっと自分にあればと思う。こんなとききっと遊女は女の武器を使って切り抜ける。でも貴族として生まれてきた佳林にはそんなものを意識したことも使ったこともなかった。

「そう。じゃあまた明日。佳林ちゃん」

さくらのまるで学校帰りに友達とお別れを言うような普通さが、返って不気味さを増幅させる。不安な夜は孤独が地を這うように襲ってくる。隣でさくらのわずかな吐息が聞こえてくる。生きている人がいるだけましだと思うようにした。



朝日が降り注ぐと艶めかしい女郎屋の廊下も何だかお寺のように新鮮で清い光を放っている。佳林は朝から雑巾を絞っては長廊下を隅々まで拭いている。

今朝、佳林が起きると女郎を取り仕切っている遣手婆がやってきた。

「佳林は罰として雑巾がけ。今度逃げたら承知しないよ」

ドスのきいた声だったが、その平穏な罰の内容に佳林は安堵した。

「拷問でもされると思った?」

廊下の横の部屋からひょっこりとさくらが顔を出した。

「別に」

佳林はそう言って雑巾がけをしながらさくらの横を通り過ぎる。

「商売道具に傷なんてつけられないしね。つまり単なる使用人のさくらには私に復讐なんて出来ない。雇われてるだけなんでしょ。このお店に」

拷問の恐怖がなくなって佳林は勝ち誇ったように言う。

「そうかなあ。体に傷、つけられなくても心に傷はつけられるかも」

さくらは不敵な笑みを浮かべた。

「どうやって?」

「あ、こんなところにゴミが」

さくらが廊下の上に何かを落とす仕草をした。佳林はそれを怪訝な表情で見ている。

「なーんてね」

さくらは意外にも自然な笑みを浮かべた。さくらは怖い存在ではあったが自分と同じ年の普通の女の子に感じる瞬間もある。でもそうかと思えばすぐに脅しの言葉をかけてくる。

「あたしの復讐はこんな嫌がらせじゃないから」

そう言ってさくらはゆっくりと佳林に近づいてきた。

「な、何?喧嘩だったら負けないよ」

佳林は取っ組み合いをするように腕を突き出して構える。

「佳林ちゃんて本当に純粋で何も知らないんだね」

さくらは佳林の警戒する範囲を悠々と乗り越えてくる。佳林の腕をたたませて、さくらは佳林の黒髪に触れた。

「何?」

佳林が後ずさりしようとする。

「動かないで」

さくらの声に佳林の足が止まる。さくらはそのまま腕を下げて佳林の首筋をゆっくりと撫でた。

「ひゃ」

佳林は思わず後ろに飛び退いた。

「そ、そういうことするならお金払って。お金もないくせにそんなことしないで」

佳林は明らかに動揺していた。今までに客相手でさえそんなことをされたことはなかった。

「じゃあお金払ったらいいの?」

佳林は、はっとなって何も言い返せず押し黙る。お金さえ払えばどんなことをされても文句は言えない世界に自分はいる。言葉ではわかっていたけどさくらを前にしてそれが一気に現実味を帯びてくる。

「お金払ったらあたしと寝てくれる?」

さくらは不敵な笑みを浮かべた。

考えてみれば誰だって自分を買うことができるのだ。自分と同い年の、あどけないこの子がお金を出せば簡単に自分はさくらの物になってしまう。さくらを客としてもてなして、もしかしたら自分の全てをさらけ出さなくてはならないかもしれない。それは元貴族の令嬢の佳林にとって罪人よりもっと屈辱的なことかもしれなかった。

「ごめん。今の言い方傷ついたよね」

さくらはにやにやと笑っていた。

「お、金なんてないくせに」

さくらはこの店の使用人にすぎない。花魁を買うなんて上流社会のようなことが出来るはずがない。

「今はね。でもあたしは絶対に這い上がってみせるんだ。絶対に」

さくらの一層大きくなった目尻の強さに佳林は背筋が寒くなった。もしかしたら自分はとんでもない人と関わりをもってしまったのかもしれないと佳林は思った。

「じゃああたしは、由加ちゃんに頼まれてることがあるから」

さくらはそう言って顔を出した部屋へ戻っていく。

「じゃあまたね。佳林ちゃん」

さくらはまるで友達のようにひらひらと手をふった。



昼近くになり、表では神輿が通るときのような壮麗な横笛の音と鈴の音が聞こえ始めた。使用人が忙しく駆け回っている。どうやらモーニング娘。の一行の到着らしい。遊女はお呼びがかかるまで待機している他はなく、佳林は右へ左へ慌ただしく動く人をただ眺めていた。その中にお盆を持って走る由加の姿があった。由加はこの店の女主人だったが、まだ若く優しいお姉さんみたいで佳林も嫌いではない。

「あ、佳林ちゃん。ちょっといいかな」

佳林を見ると由加は佳林のいる部屋へやってきて言った。

「何?」

佳林がうなずくと由加が一際深刻そうな表情をする。

「これからモーニング娘。さんが来られるんだけど、佳林ちゃんは道重さんのお相手をして欲しいの」

道重さゆみはモーニング娘。のリーダーであるとともに歌劇団を取り仕切る実力者だ。店にとっても最も重要なお客様に違いない。

「うん。分かった」

佳林は素直にそう言った。どうもこの人の言うことには逆らえない。ほっとけない何かがあるのだ。

「ごめんね。本当は佳林ちゃんのこと助けてあげようと思ってたんだけど」

由加の言葉に佳林は首を横にふった。由加がこの店の主人ということはたいていのことは由加に頼めば何とかしてもらえるのかもしれない。でも結局はこの店も由加の父の店であって、性格の悪い遣手婆もさくらも由加の手に負えない存在に違いない。だから佳林もあまり我侭を言う気にもなれなかった。それ以前に自分は大借金を背負って遊女屋に堕とされた身分なのだ。

「ううん。このお店には迷惑かけないように頑張るから」

今の佳林にはそれしか言えない。

「本当にごめん」

由加は申し訳なさそうに眉を八の字に曲げると佳林の部屋を出て行った。

佳林はさゆみの相手をするために化粧や着物の着付けに入った。そのうちに階下が何やら騒々しくなっている。モーニング娘。の先遣隊である「鞘師里保」の一行が先に店に入ったという話を聞いた。

里保は佳林がモーニング娘。でも一番好きなメンバーだ。佳林が貴族のままなら一目散に会いにいっただろう。でもこんな遊女に落された自分の姿を見られたくはない。

佳林はモーニング娘。を帝国劇場に見に行ったときのことを思い出した。あのときは朋子と一緒に里保に強引に会いに行ったりしてすごく楽しかった。あの幸せな時代は二度と戻ってこない。里保はきっとあのとき会った自分のことなんてきっと覚えていないだろう。それに貴族の令嬢や遊女屋にいること自体ありえないことだ。佳林は気まずさもあって里保には会いたくなかった。里保には凛々しい貴族の姿の佳林だけを記憶にとどめていて欲しかった。

「佳林ちゃん、佳林ちゃん」

由加が再び佳林の部屋に駆け込んできた。

「どうしたの?」

「鞘師さんが佳林ちゃんを指名したの」

「え?」

聞いた瞬間に佳林はあのときのことを思い出した。佳林の手をとった里保のほっそりとした腕。同時に何か企むように笑った里保の細い目が鮮やかに蘇ってくる。

「佳林ちゃんて鞘師さんと知り合いだったの?」

「うん。会ったことはあるけど」

佳林は曖昧に応えた。それでもただの観客と歌い手の関係にすぎない。

「じゃあそれでだ。お願い。モーニング娘。さんは一番大事なお客さんなの」

由加は申し訳なさそうに手を合わせる。それが自分の仕事なのだから行くしかないとは思う。ただ佳林には自分が一体どうなってしまうのかまだ自分でも量りかねていた。

「もうここに戻ってこれないってこともあるのかな」

佳林はつぶやくようにそう言った。

「そう・・なるかもしれない」

言いにくそうな由加の言葉に佳林は現実を思い知らされる。

里保が自分のことを気に入って自分を買ってくれるなんて本当はとても名誉なことなのかもしれない。けど今の佳林にはお金の力で貴族だった自分が買われるなんて絶望でしかない。

「そうなったら従うしかないんだよね」

佳林の言葉に由加はうつむいたままだ。その由加の様子を見て覚悟を決めざるを得なかった。

「いるのにいないなんて嘘を言って後でばれたら大変なことになるし」

「分かった。行くよ。私」

佳林は素直にそう応えるしかなかった。



朋子のことは極力思い出さないようにしていた。これ以上自分に関わっては朋子まで危ないことになる。官憲にはさくらが手を回しているに違いないし、そうなるとこの店に近づくことは恐らく不可能だと思う。もう頼るのは自分の力だけだ。とは言っても所詮は売り物の花魁だけに為すすべもない。

里保達の一行が通されたのは白石が敷き詰められた庭園が見渡せる大広間だった。身分の高い方々をお迎えするときに使われる部屋だ。よく手入れされた松の緑が新鮮で思わず目に飛び込むように入ってくる。佳林は自分の家のお庭を思い出して涙が出た。

佳林は上座にいる里保を前にして畳にひれ伏した。

「そんな他人行儀な。もっと近くに来て」

里保の声はまるで透き通ったように混じりっけがない。歌をやってきた佳林は改めて里保の声質には感動する。

「はい」

佳林は言われた通りに少し前に進み出る。

「もっと近くに」

里保は声を大きくする。着物を着ているせいか里保は以前の素朴な印象とは少し変わった。前は年式の古い洋服を着ていたからいかにも平民出身者の成り上がりに見えた。今の里保は赤い友禅染の着物に髪をくくっってやんちゃで我侭なお姫様のようにも見える。

佳林は里保の言う通りもう少しで手が届くほどの至近距離で座った。

「それからほかの人たちはもういいよ。佳林ちゃんと私の二人きりにして」

里保は突然そう言った。周囲の従者は手馴れた感じで下がっていく。佳林は緊張で動けなくなる。

「そんなに固くならないでよ」

里保は薄い目をたゆませてにこやかに笑った。佳林はその表情を見ても硬直したままだった。里保はひざの上に置いている佳林の右手に自分の手をゆっくりと重ねる。佳林は思わずびくっと手をひいた。

「それとも私のことが怖い?」

里保は佳林に迫って言った。

「怖くはありません」

「佳林ちゃんさんって言ったことは謝るからさ」

そう言って里保はくすっと笑った。

どうしてそんな細かいことまで覚えているんだろう。里保にとって自分はファンの一人にすぎないと思っていた。佳林は里保のことが不気味に空恐ろしくなる。

「昨日、ここから逃げようとしたの?それで捕まって連れ戻されったって聞いたよ」

「はい。申し訳ありません」

何て答えたらよいのか分からない。でもきっと里保やモーニング娘。から逃げようとしたことは失礼にも罪にもあたるのだろう。

「可哀想に」

里保が再び佳林に右手を握った。今度は逃げられないぐらい強い力だ。

「でもね。きっと花魁の人ってこんな狭い箱の中だから綺麗なんだよ。外の広い世界に飛び出しちゃったらその輝きはなくなってしまうかもしれない」

佳林にはあまり慰めにも聞こえなかった。この人には絶対に何か言ってやらなくてはいけないと思った。例え今は落とされたとしても自分は元上級貴族の宮本佳林なんだ。そのプライドが佳林を突き動かしていた。

「それは・・・」

佳林は思い切って口を開こうとしたところで言いよどんだ。

「何?」

「鞘師さんだって同じじゃないですか」

「え?」

「自由に歌っているように見えるけど、結局はモーニング娘。の箱の中」

佳林の言葉に里保はさっと表情を変える。

「箱の中じゃなけりゃ輝けない」

佳林は恐れずに言い切った。これぐらい言っておかないと言いように遊ばれてしまう。

里保はどんなふうに怒るのだろう。実際に佳林は怒った里保が想像できない。

「それはそうかもね」

里保はそう言うと佳林の手を放した。

「だからこういう息抜きも必要なの」

里保はそう言ってじっと佳林を見つめた。今度は笑っていなかった。



里保は漆塗りの重箱を佳林の前に差し出した。里保はそれを開けた。佳林は恐る恐るそれを覗き込んだが、中に入っているのはなんてことのないものだった。佳林が貴族時代によく遊んだ貝殻合わせの貝殻だ。

「これで遊ぼう。佳林ちゃん貴族の遊び、分かるんでしょ?」

里保は目を輝かせて言った。

「懐かしいな」

佳林はほっと一息つくとおもむろに貝殻を手に取る。朋子と一緒によく遊んだことを思い出す。もう二度と触ることはないと思っていたものだ。

「これね。こうやって歌の上の句と下の句が合ってるとぴったりと合うの」

佳林は手馴れた手つきで中からひと組の貝殻を取り出した。

「貝ってね。ぴったり合う貝殻って二枚だったときの貝殻しかないの」

佳林は貴族だった時代を思い出すように少し自慢げに説明した。

「うーん。微妙に合わない」

里保は中の適当な貝を無理に合わせてみる。でも貝殻はほとんど同じ大きさでも形が微妙に違ったりして合わなくなっている。

「歌も上の句と下の句は一つの組み合わせしかないでしょ。だからこうやって貝殻に歌を書いているんだ」

佳林は貝殻の裏に書かれた百人一首の歌を見せた。

「じゃあ佳林ちゃん、一句読んでみてよ」

里保に言われて佳林は箱の中の貝殻を一枚一枚探す。ちょうど西行法師の歌が目にとまった。少し渋いかと思ったが佳林も好きな歌だったのでそのまま詠んだ。

「なげけとて 月やはものを 思はする」

佳林は緋色に光る一枚の貝殻の歌う。そしてもう一枚の貝殻を素早く見つけて続けた。 

「かこち顔なる わが涙かな」

そして二枚の貝殻を合せた。

「ほら。ぴったり合うでしょ」

佳林は得意げに里保に見せる。

「ほんとだ」

里保は感心してそれを見つめた。

「ね。その歌、どんな意味?」

「まあ。恋の歌かな。ありがちな」

佳林は会うことのできない朋子のことを一瞬思って曖昧に応えた。この歌のように月を見て朋子のことを思う日も来るのだろうか。でもその前にもう一度だけでもいいから会いたいと思う。

里保はぴったりと合う貝殻を必死で探し始めた。佳林もそれを手伝ってやる。次々にきらきらと光る貝殻を手にとった。

「佳林ちゃん、やっと普通にしゃべってくれるようになったね」

里保が笑って言う。

「あ、」

佳林が恐縮して頭を下げようとする。

「もういいよ。お願いだから今みたいに普通にしゃべって。そのために佳林ちゃん呼んだんだからね」

里保はそう言った。

佳林はまるで貴族時代に戻ったように貝遊びに興じた。まさか里保とこんな遊びが出来るなんて思ってなかった。貴族だった佳林にとってもモーニング娘。の鞘師里保は遠い存在で、歌っている里保を遠くから眺めるしかなかった。上級貴族の特権をもってしても会いにいくのが精一杯だ。なのにまさか一緒に遊べるなんて思ってもみなかった。しかも鞘師里保は平民出身で佳林とは共通点はほとんどなかった。

遠くで鐘が八回鳴る。お八つの刻限だ。ちょうど昼の真ん中のこの時間にはお菓子が出されるのが決まりだ。出されたのは御萩を小さくしたような餅にあんこをまぶした和菓子だった。勿論、お客の相手をしているときにしか食べることはできない。

「これを食べたらもう帰らないと」

里保は名残おしそうにそう言った。

「そっか。残念」

佳林も悲しそうに眉をひそめる。

「佳林ちゃん、まさか私を一人で帰す気じゃないよね?」

里保が目を細めて笑った。まるで有無を言わさない言い方だ。これが普通の友達同士だったら家に遊びに行くなんて何でもないことのはずだ。でも今の二人の関係はそうではない。

勿論、花魁を自分の家に連れて帰るのは特別な場合を除いてできないはずだし、料金も別だ。佳林自身この店から連れて帰られたことは一度もない。きっと破格の値段だけに朋子にもそんなことはできなかったのだろう。ただしモーニング娘。のメンバーになるとそんなことは関係ないらしい。でも一緒に帰るということは何らかの目的があるのだろう。想像はできたがあまり考えたくなかった。

「私も行っていいの?」

佳林の問いに里保は大きくうなずく。

「じゃあ食べ終わったところで帰ろうか」

里保はそそくさと立ち上がる。

「里保ってこの近くに家があるの?」

鞘師里保の家がこのへんにあるなんて聞いたことがない。それに里保達モーニング娘。は全国を回っているからひとつのところにとどまっておくことはできないはずだ。

「今は貴族の別邸を貸し切っているんだ。他のみんなそうしてるみたい。佳林ちゃんの元の家に比べたら敵わないかもだけどね」

「そんなことは」

佳林は立ち上がって恐縮する。

「佳林ちゃん」

里保が突然佳林の名前を呼ぶ

「何?」

「今、誰かに助けてって言うような顔してたよ」

里保が意地悪そうに笑う。この人の笑い方は純粋なのか奥に秘めている何かがあるのかよく分かららない。

「誰か助けてもらいたい人がいるのかな」

佳林はぎくりとしたまま顔をこわばらせる。

「でも駄目。今日は私が佳林ちゃんを独占したいんだから」

里保はそう言って先を歩いた。佳林はもう里保についていくしかなかった。

表に出ると佳林が昔使っていたような羊の毛皮が敷き詰められた豪華な馬車が待っていた。モーニング娘。のセンター歌手だけあってたくさんの従者が横に控えている。

「乗って」

里保は佳林を促す。佳林はおずおずと乗り込む。馬車に乗るのは慣れていたが自分が強奪されるように馬車に乗らされるのは初めてだ。

里保が乗り込んできてドアを閉める。再び二人だけの空間になった。

「お店出るなら由加ちゃんに許可もらわないと」

最後の抵抗のように佳林は言った。

「勿論、言ってあるよ」

里保はそう言って笑う。

「お金だってかかるんでしょ」

「知ってるよ。もう払ってあるから佳林ちゃんはそんなこと心配しないで」

里保の自信満々な笑顔にもう抵抗の術がないことを佳林は思い知らされる。

「出して」

里保の声とともに馬車がゆっくりと動き始めた。

「本当は道重さんが佳林ちゃんを指名するはずだったの」

里保は涼しい顔をして言った。

「でも私が佳林ちゃん指名したいって言ったら譲ってくれて。本当に優しい先輩なんだ。道重さんは」

佳林は由加から道重さゆみは逆らってはいけない絶対的な権力者だと聞いていた。それも前々から佳林はさゆみの相手をするように言われていたのだ。それをいとも簡単に覆してしまうなんて里保のモーニング娘。での立場はどれほど強いのだろう。帝劇での公演の時、安易な気持ちで佳林は里保に会いに行った。それがこんな因縁を導いてくるとは佳林は思いもよらなかった。

−あんな目立つことしなければよかった。

佳林は里保に会いに行ったことを心底後悔した。すでに馬車は走り初め今さら何を思っても時すでに遅しだ。買う側と買われる側、その立場は完全に逆転していた。

やがて馬車は白い土塀に立派な門のついた武家屋敷の前に止まった。

「しばらくこの家を借りてるんだ」

里保は馬車から勢いよく飛び降りた。その姿を見ていると里保はまだまだ子供っぽいあどけなさを多分に残している。きっとこういう出会い方でなかったら、普通に女学校で同じクラスになって知り合っていたなら里保とは普通の友達だったかもしれないと佳林は思う。そしたらもっと駆け引きのない気持ちで里保と話すこともできたはずだ。佳林は初めて自分の運命を歯がゆく思った。

「佳林ちゃん、お風呂入ってきたら」

里保が屋敷に入るなりそう言った。お風呂に入れというのも、命令なのだろう。里保の屋敷まで来てしまったものはもう抵抗のしようがない。佳林は案内されるままに湯殿に向かった。

着物を脱いで何も着ていない状態になると急に心細くなる。久しぶりに入る檜のお風呂はとても心地よかったが、これから自分がどうなるかを考えると先が全く見えない。戸からわずかに入る光が湯を夜の海面のように生ぬるく光らせている。薄暗闇の湯地場は、幻想的で自分が現実の世界にいるのか夢の中なのか分からなくなる。水面の上を光が伸びたり縮んだりする様を佳林はずっと眺めていた。今、自分はあまりにも大きな力に取り囲まれている気がする。里保をあまり待たせてはいけないと佳林は躊躇する気持ちを振り払うように湯から上がった。最後に自分の両手をまじまじと見る。いつか今のこの体に戻れる時がくるだろうか。そして朋子のことを思い出す。今は会いたい。でもきっとこれからは朋子に会いたくなくなってしまうのかもしれない。

「朋、もうどうしようもないんだ」

佳林は心の中でそうつぶやいた。

浴衣に着替えた佳林は、縁側に座っている里保を見つけた。里保も着替えて紅葉の柄の入った浴衣を着ている。淡い橙色や黄色の多彩な混色が里保の黒い髪によく映えた。よく見ると里保は目をつむって廊下の柱によりかかっている。

「里保」

呼びかけても返事はない。

耳を澄ますと軽い吐息が聞こえてきた。その無防備な姿に先ほどから自分の被虐感は一気に消え去った。そのまま里保の横に座った。軒先から遥かに広がる夕空を眺めていると遠くに刻限を知らせる鐘がなる。空気に染み渡るように伝わってくる音は近くにいる虫の泣声と和音のように心地よく響いた。

佳林は恐る恐る里保の体に触れた。肩にかかった長い髪をゆっくりとかきわけて後ろにやる。それでも里保は動こうともしない。里保のこんな姿を見ることができるのは連れてこられた遊女の特権なのかもしれないと佳林は思った。

佳林は里保の寝顔をもっとよく見ようと里保の額に触れた。

「佳林ちゃん」

里保が初めて声を発して佳林がびくっと震える。

「私、佳林ちゃんに何かするつもりなんてないよ」

里保は目をつむったまま言う。

「ただ、嬉しかったんだ」

里保の顔はまるでいい夢を見ているみたいに幸福そうだ。

「いつもは大勢の観客に囲まれて、舞台で歌ってそれで終わり。でもあの日は佳林ちゃんがわざわざ会いに来てくれた。それも私にだけ特別に」

そう言った後、里保はやっと目を開けた。

「いつか恩返ししたいってずっと思ってた」

「恩返しなんてそんなこと」

佳林はびっくりして首をふる。

「何か力になれないかなってずっと思ってたんだ。だから私は佳林ちゃんを身請けしたいって思ってる。勿論それで何か要求するわけじゃないよ。佳林ちゃんはもう自由になれるんだ」

里保が本気でそう言っているのは目を見ればすぐ分かった。もしかしたらこれで助かったのかもしれない。借金がなくなって自由になったら朋子にだってまた会える。だけど佳林は里保の話を聞いた時に何かそれで済ませてはいけないという強い思いを抱いた。これは自分への強い因縁から始まったことなのだ。例え借金はなくなってもその因果はなくならない。

「私は自分の力で何とかしたいって思ってる」

里保が真剣な眼差しで見つめる。佳林も正直に自分の気持ちを言った。

「やっぱり人を頼ってばかりじゃ駄目なんだ。自分の力で解決しないと私の人生始まらないって思う。たとえ体を売ることになってもね」

「佳林ちゃんはそれでいいの?」

里保が心配げに佳林を見る。

「よくはないけど。でもきっとなんとかなる。神様がなんとかしてくれる」

そう言って佳林は笑った。もう朋子にも頼ることは出来ないのだし自分の力と天運にまかせるしか他にない。

「そうだ」

突然、里保が天井を仰いだ。

「いい方法があるよ。佳林ちゃん」

何を思いついたのか里保が佳林の両肩を強く揺する。佳林はきょとんとしたまま何が何だか分からずにされるがままだ。

「佳林ちゃん、私達と一緒に歌、歌わない?」

里保は胸の前に握りこぶしをつくって立ち上がった。

「え?」

佳林は一瞬どういうことか飲み込めずに里保を見つめたままだ。

「佳林ちゃんも私達と一緒にモーニング娘。をやるの」

里保はきらきらと輝く目を佳林に向けた。モーニング娘。になんて簡単になれないことは佳林もよく分っている。厳しい審査をくぐり抜けたきたからこそ、平民出身の里保がここまでの財力をもつことができたのだ。

「え、でも」

私には無理、佳林はそう言おうとした。

「私、道重さんに頼まれてるんだ。モーニング娘。にそろそろ新人を入れたいって」

それでも里保はたたみかけるように言う。

「私が推薦したらきっと佳林ちゃんをモーニング娘。にいれてくれる。ね、私達と一緒にやろうよ」

里保の迫るような勢いに次第に佳林はおされる。自分が歌手になるなんて考えたこともなかった。

「佳林ちゃんの歌なら絶対モーニング娘。になれる。そしたら借金なんてすぐ返せる。佳林ちゃんは自分の力で自由になれるんだよ」

自分の力で。里保のその言葉に惹かれた。今まで貴族という立場であったり、朋子の助けを借りてばかりで何も自分の力で自分の問題を解決出来なかった。もし自分がモーニング娘。になれば自分の力で立って歩いていくことができる。

「なれるかな。私が」

佳林がぽつりと言った一言で、新たな道が再び開こうとしていた。



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