追憶とラビリンス





1.再起する感情



水面に映る鯉の像をすくいあげたら、暗い水面に鮮やかな白と黄色が浮かび上がった。魚に触ると花が出現する仕組みらしい。魚は群れでまばゆい光を放ちながらそこらじゅうを泳ぎ回った。愛理は面白くなって何回も魚をすくい上げようとする。膝まである水が光って跳ねる。すると今度はそこに赤、青、紫の花が何個も魚の化身のように現れた。真っ暗な空間で水だけが輝いてさらさらと足の間を流れるのが心地よかった。今日はずっと栞菜の姿を追いかけていたが、ここで初めて愛理は無心になれた気がした。



 デートに誘ってきたのは栞菜の方からだった。7月の愛理の武道館公演が終わったら二人でどこかに遊びに行こうと約束した。武道館が終わって、愛理は自分なりの次への課題や反省点を考えていたら徐々に自信をなくしてしまい悶々とした日々を送っていた。そんなとき栞菜が、開催中のチームラボのデジタルアート展に誘ってくれたのだった。

 栞菜が℃-uteじゃなくなってからもずっと愛理との交流は続いていた。節目節目で何回か℃-uteのライブにも遊びに来てくれた。去年の℃-uteのラストライブには、メグもえりかも来てくれたから楽屋は、℃-ute8人のフルメンバーがそろった。舞美ちゃんは8人そろって卒業できるとはしゃいでいて、みんなそれが嬉しかった。愛理は卒業と同窓会が一緒に来たような不思議な感覚だった。千聖と舞も年上メンバーに甘えて騒いでいて、年月のブランクなんて全くなかったみたいだ。でも愛理は、℃-uteはずっと5人で突っ走っている感覚がどうしても抜けきらない。急に8人に戻されると途端に自分の立ち位置が分からなくなった。愛理は挙動不審なぐらいしきりに周囲を見回していた。そのとき、偶然早貴と目が合った。

 「栞菜なら今電話しに外にいるよ」

 愛理に向かって何でもないようにそう言った。愛理は別に栞菜を探していたわけじゃなかった。でも突然強い既視感が湧き起こって愛理は一瞬、目眩がした。なっきぃの言い方があまりに自然で、まるで時代を遡って過去の自分に言われた気がしたのだ。

 愛理はそれがいつかは分からないけど、確かにこんなことがあったと断言できた。栞菜が℃-uteにいたとき、愛理はいつも栞菜を探していた。早貴に反応できなかったのは、栞菜のいた頃の℃-uteといなくなってからの℃-uteが愛理にとって違いすぎてそれ以前の℃-uteを自然と封印していたからかもしれない。その象徴が栞菜であるような気がして、そのときから妙に栞菜の存在を意識させられた。

 愛理が急いで部屋の外へ出てみると、確かに栞菜はスマホを片手に電話をしていた。栞菜のまぶたまでうずめるような大きな黒い目にはっとなった。すっと通った鼻筋には艶のある真っ黒な髪がかかっている。いかにも仕事のできる美しい大人の女性が、仕事の電話をしている感じだった。栞菜の顔からこぼれる微笑に少し疎外感を感じて、仕方なく部屋に戻ろうとした。そのとき、栞菜が愛理を見て片手をあげた。そしてすぐに戻るというように笑って目配せをしてくれた。それはまるで恋人に送る合図のように見えて胸のあたりがざわりとした。

  

 栞菜は℃-uteが解散してから愛理に連絡をくれる回数が増えた。℃-ute時代は愛理に遠慮していた節があったが、解散してからは愛理の反応を伺うように少しずつSNSなどにも顔を見せるようになった。愛理が返し続けていると、直接電話もかかってくるようになった。愛理は栞菜の存在が以前より大きくなると、急に栞菜がいたころの℃-uteをよく思い返すようになった。

 栞菜は唯一の℃-uteの追加メンバーだった。栞菜が加入したとき、℃-uteはまだデビューもできず、ライバルのBerryz工房に先を越されて全員が悔しい気持ちと猛烈な競争意識をもっていた。だから栞菜の加入を知らされて、自分たちだけじゃ力不足なんだともっと卑屈な気持ちになった。栞菜にしてみたらその状況はものすごくやりづらかったと思う。でも栞菜はいきり立っていた自分たちとは全然違った。栞菜は競争にかまわず、順位なんて気にせずに自分のすべきことを淡々とやっているように見えた。仲良くなると栞菜は物怖じせず、思ったこともずけずけと言って愛理を笑わせた。でも、内心ではすごく人に気を使って優しい一面があったから、すぐに℃-uteのメンバーとも打ち解けてしまった。℃-uteの追加メンバーは、栞菜以外だったら成り立たなかったと愛理は思う。そんな自由な栞菜と一緒にいると楽しくて愛理はものすごく栞菜に惹かれていた。でも栞菜が℃-uteから抜けてしまったとき、悲しみというより、愛理にはそんなことを考えている余裕はなかった。デビューもできて曲も出して、℃-uteのためにもこれから自分が一番前に出ていかなきゃいけないと思っていた。5人で突っ走っていたらいつの間にか、昔の自分を忘れているように栞菜のことも遠ざかっていた。それが、いきなり℃-uteのラストライブで形を変えて愛理の目の前に現れた。栞菜が昔の愛理との関係を裏付けにしているのかはわからない。でもまるで当然の権利のように愛理に近づいてくる栞菜の存在が愛理には嬉しかった。

 

 無数のLEDライトが垂れ下がり、光のシャワーのようになっている部屋に入ると栞菜は無邪気に光を手にとって遊んでいた。その姿は妖精みたいに綺麗で横顔の稜線の美しさに思わず見とれてしまった。℃-uteにいたころの栞菜も勿論とても可愛かったが、やはりまだ子供だったのだなと思う。

 「ありがとう。何かもやもやしてたけどここに来たらすっきりした」

 愛理は、がんじがらめになっていた自分の思考がほぐれていくのを感じていた。武道館公演という大きなイベントが終わったのに何か自分自身に納得できない感情を抱えていた。でもそれを口に出すと見に来てくれたファンや一緒に仕事をしたスタッフさんにものすごく失礼なことをしているみたいでずっと言い出せないでいた。愛理は自分がやらなきゃと思ってしまうと悪いパターンの思考にはまってしまう。もっと純粋に歌や演技を楽しんだらいいと自分でも思うが、武道館など特に大きな舞台になるとそうもいかない。だから自分の中だけで思考だけが積み重なっていった。それが、こんな無数の光や巨大な空間にいると、自分のくだらない思考も大きな世界に吸い込まれていくようでとても楽になった。

 「でしょ。共演してた子からここいいよってすすめられたんだ」

 愛理を見つめて懸命に話そうとする栞菜の顔が美しい。暗い空間を出て、明るいところで栞菜の顔を見れるようになってまた見とれてしまった。

 「その子も演技でいろいろ煮詰まってて。でもここに来たらなんか明るくなってたよ」

 栞菜も同じように笑っている。

 「うちらの仕事って正解がないじゃん。だからいろいろ考えちゃうとドツボにはまるよね。だから舞台の一部になってしまえば一番いいんだけど」

 「舞台の一部?」

 「そう。演じてるときも、自分が透明になって舞台の一部になれてるって思うときが一番気持ちいいもん」

 栞菜が笑ってそう言った。愛理は今自分がすっきりしているのはこのデジタルアートの一部になれたからかもしれないと思った。

 「栞菜も悩んだりすることあるの?」

 「そりゃあるけど。もう悩まないことに決めた。私は瞬間瞬間を生きることに決めたから」

 栞菜は愛理の前でくるっと一回転して見せる。何気ない栞菜の仕草が物語の一場面のように見える。女優というのは、そんなオーラが勝手に身についていくものだろうか。愛理には栞菜だからこそ表現出来る世界が無数に広がっている気がして羨ましくなった。自分はきらめく舞台や照明があたるから輝くもので、自分一人がいるだけではあたりはしんと静まり返っているように感じる。だから追い詰められるといつも、自分が道化師のようにふざけてはしゃぐしかないように思ってしまう。自分なりに光のあたる道を歩んできているつもりではあったが、栞菜みたいに℃-uteとははっきりと決別して違う道で輝いている人もいる。ハローをやめた子は一般人に戻っている人がほとんどだったから同じ芸能人で成長し続けている栞菜のような存在は愛理にとって特別に感じた。

 「愛理、アンケート書いて帰ろ」

 栞菜にそう促されると、すでに会場の出口に近づいていることが分かった。楽しかったせいであっという間だった。外に向かってイベントの光が消えて日常の明るさがそこに見えた。

 栞菜と並んでアンケートを書いていると何となく小さい頃に仕事をしているような感覚が蘇った。

 「よくこうやって書き物してたよね」

 栞菜が微笑してそう言った。

 「そうだった。お互い見せ合いっこして書いたよね」

 デジャブの理由が℃-ute時代のことだと分かって、愛理も昔を思い出して笑えてきた。焦りと競争意識でいっぱいの時期だった。でも何事にもマイペースな栞菜とアンケートを書いているときは、その張り詰めた感情からは開放されていたように思う。

 「愛理はいつも真面目に書こうとしてたけど、私は半分ふざけて書いてた」

 栞菜は愛理の字をまじまじと見つめて言う。

 「まだ子供だったからね。栞菜のも可愛く書けてたよ」

 「ありがと」

 栞菜は、そう言うとアンケートをさらっと書き終えて箱の中にいれた。こうやって℃-uteの話題をだしてくるということは栞菜にとって℃-ute時代にネガティブな感情はそれほどないのかもしれないと思った。栞菜が℃-uteのときのことを本心ではどう思っているのか愛理はずっと気になっていた。でも触れちゃいけないと思っていたからあまり聞いてこなかった。そんなふうに考えを巡らせてるうちに愛理は、アンケートに書こうとしたことがまとまらずに途中で止まってしまった。

 「ああ、もう間違えた」

 そう言って愛理は一旦破ろうとする。

 「待って。それ破かないで」

 突然、栞菜が手を重ねて静止してきたから愛理はびっくりした。しかし捨ててはいけないものではない。下に置いてあるゴミ箱には書き直すために破って捨てたアンケート用紙もたくさん入っていた。

 「なんで?」

 冗談かと思ったが、栞菜は真剣な表情で愛理を見つめている。

 「それ、もらってもいい?」

 栞菜は破こうとしたアンケート用紙を指差した。

 「いいけど。こんなのもらってどうするの?」

 愛理はそんなことかと苦笑して言う。

 「愛理が書いた字だなって、思って」

 一瞬栞菜の言っている意味が分からなくて愛理は首をかしげる。

 「愛理の字、昔からあまり変わってないね。字によって大きさが変わるところとか」

 そう言って、栞菜は愛理からアンケートを大事に受け取ると、中途半端な書きかけの字が書かれた紙を誇らしげに見つめた。

 「事務所から返ってきたアンケートみたいなの、返ってきたのがたくさんあったじゃん。 あれとっておいて見返したりしてたんだけど。どこにいったか分からなくなって」

 「事務所って℃-uteのときの?」

 愛理は驚いて聞き返した。

 「そう」

 「よくとっておいたね」

 自分がもし事務所を移籍して違った仕事をするならきっと全部捨ててしまったと思う。

 「愛理が書いた字。よく見てたから覚えてた」

 栞菜の眉が悲しそうに下がったように見えた。そして愛理は、やっと意味が分かったようにはっとなった。自分が書いて捨てていくようなありふれたものでも、栞菜にとって愛理の字は愛理自身と同じなのかもしれない。

 「ちゃんとしたの。栞菜宛に書こうか?」

 「いいよ。こういう自然なのがいいんだ」

 書きかけのアンケート用紙を愛理から受け取ると丁寧にたたんでカバンにしまった。まるで自分の体の一部が栞菜の中に入ってしまったような、恥ずかしいような嬉しい気持ちになった。そして小さかったあの頃から変わらず栞菜の中には自分が存在しているんだと思えた。いまいち対人関係に自信がないときに愛理は、おちゃらけて相手の反応を見たり、こういうことで相手が自分をどう思っているか推し量ったりしてしまう。

 「まだもってるんだ。℃-uteのときのもの」

 愛理は思わず顔がほころんで、自分の表情をはぐらかすように言った。

 「そうだね。でも今でも言われるんだよ。℃-uteのときから応援してますとか、℃-uteのときの歌が好きですとか」

 栞菜は愛理にかまわず自慢げに言った。栞菜のそのわざとらしい表情の中にも明るさが見えて愛理はほっとした。今なら栞菜に℃-uteのことを聞いても大丈夫な気がしたからだった。

 「栞菜は後悔しなかったの?℃-uteを辞めたとき」

それは今まで一度も聞いたことがないことだった。

 「今はないけど、あのときはそうでもなかったよ」

 栞菜は愛理をまっすぐ見つめてそう言った。

 「あのとき?」

 愛理は少し意外に思った。栞菜なら悔いなんてないって言い切るものだと思っていた。℃-uteのことを振り切ってなければ、あんなに舞台やタレントとしての活動に邁進できるはずがないと思った。でも栞菜の「あのとき」という言い方がどうにもひっかかった。

 愛理は栞菜が℃-uteを去ったときの状況を思い返した。栞菜は足の調子が悪く当面の活動を休んでいた。そして普通に運動するのもきつくなってしまい、ダンスが激しい℃-uteの活動をあきらめて辞めるしかなかったという表向きの理由は分かっている。でも別に理由があったのか愛理は改めて聞こうとはしなかった。悲しくはあったが、当時の愛理はどうしようもないと思っていた。℃-uteは中も外も激しい競争の中にあったし、誰にも本心でプライベートを相談する雰囲気にもなかった。ただ、やめるときは愛理に長文でお礼のメールを送ってくれたから、自分が原因ではないことと、これで栞菜と会えなくなるわけではないことだけにほっとしていた。でも栞菜の卒業を思い出す度に、愛理はあんなに仲が良かった栞菜に対して自分はあまりに冷淡だったと思うことがある。ハロプロにいたときも、仲のいいメンバーが卒業する時に大泣きする他のグループの子を見ていると常にそう感じてしまう。そのときは聞かない優しさだと思ったけど、とことん聞く温かさもあったのかもしれない。

 「正確に言うと私が辞めることに全然後悔はなかったんだけど。その後の℃-uteが気になってた」

 「その後の℃-ute?」

 愛理は虚をつかれたように繰り返して言った。てっきり栞菜自身が後悔したことを話してくれると思っていた。その後の℃-uteが関係するとは思っていない。

 「SHOCK!事件があったでしょ」

 栞菜がそう言って愛理はさらに驚いた。℃-uteは栞菜がいなくなった後、えりかもモデルを目指して卒業してしまい、5人体制になった。その後の初っ端のシングルが「SHOCK!」という題名で、愛理の一人ボーカルで、残りの4人全員がバックダンサーというおおよそファンから受け入れがたいものだった。そのせいで応援してくれているファンの間でもメンバーの間にもいろんな軋轢を産んだ。今回はダンスを頑張るというメンバーのインタビューを聞いただけで愛理は嫌な気持ちになってしまった。精神的なストレスで声もでなくなった時期もある。とにかく歌の通り全てがショックだった。でもそれを乗り越えたおかげでteam℃-uteの絆も生まれたし、メンバーの結束もできるようになった。ただそのことはもう誰も話題にする人もいない。そんな過去の話を栞菜がすることがとても意外だった。

 「愛理のことが気になってた」

 愛理が何も言い出せないでいると栞菜がぽつりとそう言った。愛理は栞菜のことをずるいと思った。まるで10年たった同窓会であのとき好きだったと言われるようなものだ。さっきの書きかけのアンケート用紙と一緒に栞菜に気持ちが引きずり込まれていたからなおさら腹がたった。

 「私も何とかしたいとずっと思ってたけど、外からじゃ何もできないし」

 「そりゃそうだよね」

 会場の外にでるとそこはもう熱射の空間で、アスファルトの白い地面が浮かび上がって見えた。愛理は正直、「SHOCK!」のときの自分の気持なんて栞菜に何が分かるのだろうと思った。だからこんな話題はもうやめて、何か冷たいものでも食べにお店に入りたいと思った。

 「すごい自惚れてるけど笑わないでね」

 栞菜は急に真面目な顔になった。何を言われるか分からずに急に愛理の鼓動が高鳴る。

 「私がいたら止められたんじゃないかって思ってた」

 「SHOCK!事件を?」

 拍子抜けした気分になって愛理は思わず笑いそうになった。でも栞菜は大きくうなずいた。

 「あの問題さえなかったら、私なんていなくてもいいって思ったけど」

 栞菜がそう言って愛理は、もしあのとき栞菜が卒業していなかったらどうだったのだろうと考えた。でもきっと何も変わらなかったと愛理は思う。℃-uteは5人の℃-uteに生まれ変わらないといけなかったし、そうするべきだったのだと思う。

 「大変だったと思うよ。栞菜がいても」

 「そうだね」

 栞菜は何かを言いよどんでいるようで、少し上を見上げた。その顔がさっきまでと違っているようで愛理はどぎまぎした。

 「舞美ちゃんは、ああいうときダンス頑張るとか一本調子でしか気持ち伝えられないでしょ。千聖は愛理を守るって言ってもそれはそれでファン同士で喧嘩になるし」

 栞菜がそう言うと、愛理は一瞬栞菜が、もしも世界がこうだったらとか言い合っていた昔の幼いときに戻ってしまったような気がした。

 「ん、まあね」

 愛理は曖昧に返事をする。

 「ああいう問題ってメンバー同士で話してもどうしても難しいでしょ。それぞれファンの人もいるし」

 栞菜はいなかったくせに。そう言われても仕方ないことを今更大人になった栞菜が言い出すのが愛理はとても不思議だった。しかも、相当昔の話なのに何故栞菜はそんなにこだわるのだろう。

 「そうだね。確かに栞菜がいたら違ったと思うよ」

 愛理はそう言った。5人の℃-uteと8人の℃-uteを全く違うように感じるのはそれぞれが持っている個性が違いすぎるせいだ。あの時、栞菜がいてくれたらと思わなかったわけじゃない。でもそんなことを考える余裕なんてなかった。でももし8人の℃-uteだったら愛理はBuono!みたいに妹のような存在でい続けられたのかもしれない。

 「私がいたら何か出来たかもって。それだけが後悔なんだ」

 栞菜がそう言うから事実なんだろうと愛理は思った。でも栞菜がSHOCK!事件に未だにこだわっていることにまだ半信半疑だった。

 あたりは上から降ってくる日差しが激しく、蝉の鳴き声がじりじりと聞こえてきた。そのまま駅まで二人で歩いた。栞菜は自分のことをどう思っているのだろう。もしかしたらそこまで自分のことを思ってくれていたということなんだろうか。日差しがまぶしく、栞菜の顔を直視できなくて愛理はそんなことばかり考えた。 

 「私も空回りして結局娘。の先輩にも迷惑ばかりかけてちゃって」

 ぽつりと栞菜がそう言った。 

 「先輩?迷惑?」

 最初、栞菜がそう言った時愛理は何のことを言っていたのか分からなかった。

 「でもSHOCK!事件のときはもう栞菜はいなかったでしょ?」

 愛理が聞き返すと栞菜は顔色を変えて首を横にふった。

 「ごめん。やっぱり違った。何でもない」

 やっぱり、栞菜はこの話題になるとおかしくなる。

 「ごめん。こんな話嫌だよね」

 栞菜が突然、我に返ったように言った。愛理は首を振って栞菜を見つめた。 

 「んー。でも嬉しいよ。栞菜が℃-uteのこともすごい考えてくれてるのは」

 愛理がそう言うと、栞菜がかすかに笑った。儚げなその笑顔は全く隙がない栞菜が初めて見せた弱みのように思えた。栞菜の動揺の中に何が有るのか知りたかったが、栞菜の表情からそれ以上聞くのは憚られた。

 チームラボの後は抹茶金時を食べて、冷たくて甘いものをしっかりとったら体もすっきりした。栞菜といつか一緒の仕事ができたらいいという話をした。

 「愛理はもう頑張らなくていいからね。手を抜くぐらいがちょうどいい」

 「それじゃ栞菜に追いつけない」

 「何いってんだか」

 栞菜が愛理のおでこを軽くこづいた。栞菜は笑っていたが、何かを隠しているような曖昧な笑顔に見えた。栞菜の美しさは、舞美ちゃんとは少し違う。どこか翳のあるようなミステリアスな美しさのせいで愛理は完全に栞菜に惹かれてしまった。それが、中学生の時はほんの少し手を伸ばせば届くところにいたから、なおさら愛理の心に沸き立つのを抑えるのが難しい。ずっと今の時間を切り取っておきたかった。

 「栞菜はすごいと思うよ。誰の力も借りないで、仕事見つけて。お芝居っていう道も極めてる」

 栞菜にもっと近づきたくてそう言った。でも栞菜は、まるで人の評価なんて気にしないみたいに飄々としていた。演技や仕事の話をしていたら気後れして、ますます苦しくなってしまいそうだった。だから栞菜が弱みを見せたSHOCK!事件のことがどこか心にひっかかった。何かがまだこの事件に眠っているような気がしていた。SHOCK!事件はずっと℃-uteの中だけの話で、自分自身の中だけの話だった。でもそうではないとしたらと、愛理の思考はあちこちに飛んで定まらない。とにかく栞菜の動揺の中に何があるのかを知りたかった。

 夜が近づいてあたりが薄闇になるとようやく夏の勢いが衰えてきた。道路ばかりがだだっ広い豊洲の町は昼間は人工的な巨大ビルに灼熱の太陽が反射してやけににぎやかだった。でも日が陰ると途端にまばらに生えている背の低い木々が次第に存在感を増して急に静かになった。今日はたくさん話してたくさん笑ったのに、栞菜と別れてしまったら全てがなくなってしまうようで不安になった。

 「愛理は幸せに過ごしてよね」

 別れ際に突然栞菜はそう言った。

 「今まで頑張った分ね」

 栞菜がぽつりと続ける。愛理はそう言われるとまるで栞菜抜きで一人で自分自身を幸せにしないといけないようで寂しくなる。

 栞菜は新しく決まった舞台の仕事に意気込んでいた。きっとしばらくは会えないのだろう。それに1度遊んだからとしつこく誘って変に思われるのも嫌だった。

 帰る方向が違う栞菜と別れて愛理は帰りの電車を待っていた。一人になると仕事や移動中の自分と重なってきて急に日常が戻ってくる。あのチームラボの光の演出も、栞菜と歩いた豊洲の町も全て夢だったのではないかと思えてくる。ただ栞菜が受け取った愛理の書きかけのアンケート用紙とSHOCK!事件のことが強烈に愛理の心に刻み込まれていた。

 愛理はスマホを取り出すと自然と栞菜とのやり取りを表示させている。

 「また、会いたいな」

 そう思っても出来るはずもないから口に出してみた。こうなると栞菜が激しく反応したSHOCK!事件について何があったのか調べたくなった。当事者の℃-uteのメンバー同士ですでに話し尽くしてもう何もない。きっと℃-uteの中の話ではなくて、℃-uteの外で何かがあったのかもしれない。愛理が思いついたのはSHOCK!事件のとき℃-uteのために動いてくれた「高橋愛」の存在だった。

 来月からハロプロの夏のライブが始まる。愛理はそれにOGとしてゲスト出演することが決まっていた。同じく出演するOGメンバーには先輩の高橋愛もいることを聞いていた。

 愛ちゃんに聞いてみたら何か分かるかもしれない。高橋愛はSHOCK!事件の時に℃-uteメンバーを全員呼んでくれて長い時間をかけてメンバー一人一人の気持ちを聞いて、そこで大泣きしてくれた。諭すのではなくて、わんわん泣いた。その涙に愛理の涙も、他のメンバーの悔しい気持ちも全部含まれていると思ったら、自然と気持ちが前を向いた。そこから℃-uteはまた一つになれたと思う。愛ちゃんと栞菜が関係しているというのは聞いたこともなかったし確証もなかったが、とにかく聞いてみたら何かがわかると思った。



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