1話
店内にかろやかなバイオリンの協奏曲が流れている。椎葉歩は、ああフルトヴェングラーだなあとしみじみ思った。彼の指揮にはピアノとバイオリンの間に挟まれた独特のリズムがある。まるで大きな波にゆられているような、それでいて鋭く心の核を突いてくるような弾んだメロディー。ここは強く。ここはテンポよく。しばらく聞いていると歩の手指は、いつの間にかバイオリンを奏でる動きになっていた。
椎葉歩はバイオリン奏者として業界ではかなりの知られた存在だった。歩は両親の仕事の都合で7歳の時から高校時代に日本に戻ってくるまでずっとドイツのベルリンに住んでいた。弦楽器を扱っていた両親の影響で一流の楽器と演奏者による重厚なヨーロッパのオーケストラを聴いて歩は育った。バイオリンを習い始めた歩の才能は早々に開花した。中学生ながらヨーロッパのバイオリンコンクールで優勝して若き天才少女として音楽雑誌に掲載されたことも何度かあった。しかし歩が注目されたのはバイオリンの腕だけではなかった。
椎葉歩は誰もがうらやむほどの美少女だ。目鼻立ちがすっと整っている上に黒髪からのぞく白い肌が為す色の対比があまりに対象的ではっとなるぐらいだった。くりっとした瞳ははにかんだような愛嬌のある笑顔をいとも簡単に作り上げるのだった。しかし歩を印象付けたのはその美しさだけではなかった。それは顔の作りというよりもその表情−苦しそうなつらそうな表情をしても美しさは全く損なわれない顔の表情だ。むしろ普通の表情をしているより顔をくしゃくしゃに歯を食いしばっている時のほうが何か禁欲を破って、人を誘うような魅力、あるいは独特の嗜虐感をかきたてる官能的な顔なのだ。その魅力は出会った人間にしか分からない、写真では決して味わえない歩のもっと美なる部分であったかもしれない。
「答えは、いつでもいいから。聞かせてほしい」
音楽に聞き入っていた歩は目の前にいる彼の言葉を聞いてようやくそんなことをしている状況ではないことに気づいた。彼のまっすぐな視線が歩には痛い。大学に入ってから告白されるのはもう何回目だろう。彼はオーボエのコンクールで常連の上位入賞者だ。彼だけでなく歩に告白してくるのは決まって音大でも成績優秀なエリートばかりなのだ。だからごめんなさいを言うのは何だか申し訳ない気持ちになる。歩は考え込んだ。そして何かを思いついたように彼を見た。
「わかった。あたしの質問に答えてくれたらあたしもその質問に答えるよ」
彼は向かいに座って真剣な表情を歩に投げかけている。
「あたしの親友についてどう思う?」
歩は言った。
「え?」
「ねえ、あたしの親友についてどう思う?」
口に出してみて初めて歩はこの質問がもつ何か危険な匂いに改めて気づかされた。歩は、ただ純粋にこの質問の答えを求めていた。歩にとってこの質問の答えを聞くことは何かすごく胸騒ぎがするほど魅惑的なことなのだ。
「歩の親友って広瀬?」
「違うよ。ヒロとは仲いいけどヒロじゃない」
「じゃあ……岩園?」
「違う、みどりじゃない」
彼は完全に歩のペースに引きずり込まれたようだった。
「じゃあ…誰だよ」
「あなたって意外とあたしのこと知らないのね」
歩は得意げに言った。実際歩にとって彼が自分のことをどの程度知っているかなんてあまり気にならなかった。むしろ歩は内心では満足さえしていた。自分に告白しようとする人間からもその名前が出てこない。そんな秘密めいた関係こそきっとあたし達にふさわしいのだ。
「あと誰がいたっけ?」
半分降参したように彼は言った。散々じらせてから歩は力強く言った。
「安西真奈美」
「え、安西さん?」
彼はものすごく驚いた顔をした。これも歩の予想通りだった。
「え、だって安西さんと歩ってそんなに仲よかった?」
歩は肯定も否定もしなかった。すると一瞬気まずい沈黙が広がる。この張り詰めた空気は、真奈美のせいだと歩は思った。名前を出しただけでその存在感で場の空気を支配してしまう。きっとそれは真奈美という天使とも悪魔ともとれる強烈なキャラクターによるのだ。
「君は安西さんには高校のときすごくいじめられてたんじゃないの?」
「へぇ。そんな噂があるんだ」
歩は軽く笑みを浮かべながらまるで知らないとでも言う様に身を乗り出した。
「歩が転校してくるまでは、安西さんが高校一の美人だったしバイオリンも一番だったんだろ?それが歩が転校してきたおかげで」
「おかげで全部あたしに一番とられちゃった?」
歩はそう言ってにこやかに笑った。
「確かに喧嘩したこともあったな」
「そんなんじゃなくてバイオリンの演奏邪魔されたり、ひどい意地悪されてたって」
「うーん。だけじゃないね」
歩は彼の言葉をさえぎって言った。
「あと、制服破かれたりとか、洋館に連れ込まれて監禁されたり、とか?」
歩は笑顔のまま言った。彼の表情がみるみるうちに変わっていく。
「それににねえ」
歩はわざと自分の胸元のボタンを外して下にめくった。
「あなたには見せてあげるよ」
そう言って歩はおもむろに下着を引っ張って胸元の白い肌をはだけさせた。
「ちょっと何するんだよ」
彼は驚いて周囲を見回した。歩は構わず突き出すように彼に胸元を見せた。するとちょうど乳房の上あたりに2センチぐらいの白く交差した十字架のような形の跡が見えた。
「やけどの跡。真奈美にやられたんだ。他にも何ヶ所かあるけどね」
「これ、大丈夫なの?」
彼は唖然として言った。
「大丈夫。真奈美は目立つ場所にはしてこなかったから。服着てれば平気」
「そういう問題じゃないし。今でもこういうことされてるの?」
「まさか、お互いもう大学生だよ。でも真奈美の家はあたしがプロ契約してるプロダクションのオーナーだからね。そうそう迂闊なことはできないけど」
歩はへらへらと笑った。
「何でそんな危ないやつの会社と契約したんだよ。君だったらヨーロッパでの実績もあるし、契約してくれるプロダクションなんか他にもあるだろ」
「さあ……。それは…真奈美がいる限り無理なんじゃないかな」
歩は彼の顔をゆっくりと見据えた。その視線は、歩が住む世界と彼が住む世界の完全な別離を意味していた。もっと言うなら彼が理解できないであろう世界に監禁され続けている歩のある種あきらめにも似た達観した態度を意味していたのかもしれない。