「Sweet Cherry Blossom」
桜の花びらが渦巻きの風に吹かれて舞っている。みやはそんな様子を見るときまって春だねと言う。確かに桜が咲く季節になると冬の風に混じって一瞬だけ春の匂いを感じることがある。けど桜の季節はまだ寒い。思い返してみると私は桜を見て寒いと首をすくめることの方が多かった気がする。だから桜の咲くころはいつも花も匂いも自然の方が私の先を行ってノロマな私はなかなか追いつけない。初夏になって周りの白い制服に反射する眩しい日差しを感じるとやっと私は季節が変わったことを思い知らされる。桃は体が小さいから寒がりなんだよ。みやはそう言って自分と同じだと言ってくれるけど私にはみやと自分が同じだなんてあまり信じられなかった。
みやとは出会いは最初からそうだった。夏焼雅と初めて出会ったとき、私はみやとの違いをまざまざと見せつけられた。私が高校に通い始めてから間もないときだった。「女子高生」なんて言葉に浮かれながらバスを待っていると停留所で小さい子供を連れた家族に出会った。家族で海外旅行にでも行くのだろうか。両親は大きなスーツケースを二つ持っている。お母さんはまだ生まれたばかりの赤ちゃんを抱えていた。お父さんとまだ小さな男の子がそれぞれスーツケースを動き出さないようにしっかりと持っていた。バスの中は幸いなことにあまり混んでなくてその家族も私も座席に座った。
機械的にドアが閉まる音がしてバスが発車した。その日は静かな朝だった。暗い沈黙というのではなくて物事が整然と進んでいく明るい感じ。近くに座っているお婆さんは朝からうつらうつらと船をこいでいる。
「おばあさん寝てるのかな」
男の子のヒソヒソ声が聞こえた。感心にも起こさないように内緒話するように口に手をあててお父さんに言っている。私は小さい子のそんな仕草をあまり見たことがないのですごく微笑ましい気持ちになった。
ちょうどその時だった。バスがカーブにさしかかったところで突然急ブレーキをかけた。スーツケースをしっかり握っていた男の子はもろとも前方にひきずられるように座席から離れていく。すごい勢いだった。
「危ない」
私は叫んで横からスーツケースを引き止めようとした。でも勢いのついたそれはとても重たくて二人の力では止められない。二人ともバスの通路を前方に引きずられていく。私は子供が怪我しないかと血の気がひいた。そのとき誰かの手が前から止めてくれた。スーツケースはふわりと止まった。
「大丈夫ですか?」
目の前にあったのは柔和な笑顔。
「すいません」
お父さんが本当に申し訳なさそうな顔をして謝ってくる。幸い男の子にも怪我はなかった。ほっとしたのと同時に意識が抜けたかのようにぼんやりしていた。私は正義の味方みたいにして突然現れたその女の子に完全に見とれてしまっていた。まるで外国人のように色白で目元がくっきりしててすごい美人だと思った。それがみやとの最初の出会いだった。みやとは偶然にも同じクラスになった。
私は授業の休み時間でもお昼のお弁当のときも決まってみやと二人でいる。クラスの友達にもみやを探しているときは私に居場所を聞いてくる。みやも多分そうなんだろう。それはとっても嬉しいことなんだけど誰からも人気があるみやと地味な私とはどう考えても釣り合わない。みやはオシャレで可愛くて性格もさっぱりしてて私との違いをあげればきりがなかった。
「夏焼さんの親友って嗣永さんなの?」
私達が親しくなってから別のクラスの友達にそう聞かれたことがあった。
「そうだよ」
みやがいとも簡単にそう言ってくれたのでそれだけで私はずいぶんと気持ちが楽になった。
「タイプ全然違うと思うんだけど」
「確かに。よく私と親友になろうって思ったよね?」
私はその友達の勢いを借りてみやに聞いてみた。みやが私のことを親友と言ってくれたからもうどんなに茶化されても平気だと思った。
「桃がクラスで一番可愛いから」
みやはさらっとそう応えた。
何でもいいからつっこんでくれたらいいのにその友達はあまり親しくはないせいか、私を見て「それはそうかもね」と全く意に介する様子もなくそう言ってくれた。いや言わされていたみたいな感じだ。何か言わなきゃいけないのに私も何も言えなかった。
何だかいたたまれなくなって私は適当な理由をつけてその場を抜け出した。私は廊下を歩きながら腹が立った。まず私を親友と言ってくれたことは嬉しい。でも親友ならその親友に対してなんということを言うのだ。親友を選んだ理由に「可愛い」なんて絶対おかしい。それにクラスには私より可愛い子なんてたくさんいた。でも、だけど嬉しくて腹が立てば立つほど嬉しくて顔が熱くなってくる。
クラスで一番可愛くて美しいのはなんといってもみやだと思う。私はあの時、そう主張したかった。私たちは相手の容姿について今まで一度も言い合ったことはない。みやはクールで優しくてかっこよくてそんなみやを私は一番近くで見つめてきた。タイプは全然違ってもお互いに認め合って、理解し合えていればいいと思った。私たちの関係はそんな静かな関係のはずだったのだ。
学校の帰り道、桜並木をみやと歩いた。そんなみやとの出会いがあってから1年。私達は帰り道にどちらかの家に寄ってから帰るようになっていた。時々、こんなに自分がみやを独占していいのかと思う。でも普通友達にはそんな感情は抱かない。私が少し変なのかもしれなかった。
風は頬に少しあたるくらいでそれほど寒くはなかった。花びらはちらほらと落ちていたが、ほとんどの枝はまだ全面に渡って満開の桜を抱えていた。近くで子犬が走り回って小さな女の子がそれを追いかけている。小さい子が発するにぎやかな声には本当に癒される。自分も一緒に子犬を追いかけていきたくなった。
「桃ってピンクが似合うよね?」
みやが桜を見上げてそう言った。
「そうかな」
私は普段はモノトーンや黒のシックな服装をしていることが多い。ピンクやフリルも着てみたい気持ちはあったけど今の私にはどうしてもはばかられた。
「そうだよ。絶対似合う。名前が桃子だからかな」
「それそんなに関係ある?」
言いながら私は少し嬉しくなってみやと一緒に桜を眺めた。
「でも桃にはいっちばんきれいな満開の桜が似合うな」
みやは時々そんな言葉を恥ずかしげもなく吐いてくる。親友って遠慮なく相手の欠点をつついて笑い合ったり、落ち込んでるときにはさりげなく褒め合って慰めたりするのだと思うけどみやの言葉はそのどちらでもない。だから嫌味だと言い返すことも出来ないし、慰められるというのもまた違う。
「また。そんなこと言って。何も出てこないよ」
風が吹いて地上に積もっていた桜の花びらがまるでもう一度出番が巡ってきたように舞い上がった。木の枝からゆっくりと落ちてくるものと舞い上がる花びらが交差して再度結合していく。花びら達は自分たちがどこへ行ったらいいのか分からずに右往左往していた。まるで風の精が自在に桜を操って遊んでるみたいだ。
「別に何か期待してるわけじゃない」
みやは笑いもせず真顔でそう言った。でも、みやの頬の色が桜の色と全く同じで思わず見とれてしまう。本当は満開の桜はみやこそ似合う。この世にみやほど美しい存在なんてない。でも私がそう言ってしまったら今の関係が全部壊れてしまうようで怖かった。
その時、ぱきっと頭の上で音がした。カラスが桜の木から飛び立っていくところだった。その反動で折れてしまった桜の木の枝が花びらを散らしながら木々の間にひっかかりながら落ちてくる。
タイミングの悪いことにさっきまで子犬と遊んでいた女の子がそれを見ていた。
「さくら、とる!」
そう言って落ちてくる枝の真下で手を広げる。遠くから見たら綺麗な桜の枝だけどそれは子供には十分危険な落下物だった。
「危ないよ」
私は叫んでその子のところまで駆け寄った。何とか間に合った。小柄な私でもその女の子に比べればだいぶ高い。
「危ないから」
そう言ってもその子はそのまま枝をキャッチしようと動かない。いよいよ桜の枝は勢いをつけて私の頭上を落ちてきた。幼い子供を守るようにして華麗にも私は木の枝を手の中にうまく収めた。と思ったのは私の頭のイメージだけだった。
ばさあ。枝は手を弾いて花びら付きの枝ごともろに頭にかぶった。
「すごーい」
小さい子が喜ぶ声が聞こえたからきっと大丈夫だったんだろうと思う。安心はしたけどかなりみっともない。しかもみやの前だ。せめてもう少しいいところを見せたかった。
「桃、大丈夫?」
みやがすごい勢いでかけつけて枝を払いのけてくれた。肩から制服にいたるところについた木屑も丁寧にみやがのけてくれる。私は苦笑いするしかない。でもみやは優しいから私の醜態には何もふれずに怪我したところはないか咄嗟にあんな行動が出来るなんてすごいと真剣に言ってくれた。みやは本当に出来すぎた親友だった。
気を取り直してみやと私の家に向かった。途中で私はみやとの最初の出会いを思い出す。スーツケースに引っ張られる子供を助けようとして結局自分まで引きずられてしまったときのことだ。あのときも私の咄嗟の行動にみやが助けてくれた。みやは私のピンチにはすぐに駆けつけてくれて本当に王子様みたいだと思う。でもそんなことを思ってるともし気づかれたらきっと気持ち悪がられる。だから私はそんな気持ちを心の奥底にしまいこんだ。
「相変わらず整っているというかほんときれいだよね。桃の部屋」
みやが私の部屋に入って言った。みやが来るからときちんと片付けたことが、かえって私には恥ずかしくなる。私の部屋はベッドと机とクローゼットがあるだけでその他には不要なものは何もない。唯一女の子らしいものと言えば、ベッドに置いてあるみやにもらった小さな女の子の人形だけだ。みやは他の友達には小物にしてもインテリアでもあれが可愛いとかこうしたほうがいいとかおせっかいなくせに私には一言も言ってこない。でもそれはきっと遠慮しているのではなく、私達が違いすぎるのだと思った。
私たちはいつものようにテーブルに座るとみやは大きなファッション雑誌を広げて私は読みかけの小説をカバンから引っ張り出す。どちらの家に行ってもやることは全く同じで、テスト前になるとそれが勉強道具に変わる。途中で少しだけ会話を交わすことはあっても私とみやは基本的にはおしゃべりもせず、お互いの本を黙々と読んでいる。みやは本当は退屈してるんじゃないかと思うことは何度もあった。でもいつも自分の思ったとおりを貫くみやの態度を見ているとかえって失礼になると思って私は何も言わなかった。ただし、いつもみやが傍にいてくれるものだと勝手に期待することだけは私は恐れていた。いくら親友と言っても限度があるし、みやは私の物じゃない。みやといると居心地がいい反面、私はそのことだけはずっと自分自身に言い聞かせていなければならなかった。
探偵物の小説を読んでいると時々思考力が途切れてきて目があちこちに泳ぐ。盗み見のようにみやを見ると涼しい切れ長の瞳を真剣に雑誌に向けている。私は背中をベッドの押し付けて目を閉じた。目を開けるとさっきよりも重く睡魔がのしかかってくる。もう一度目をつむってから本へ戻ろうとしたときますます意識が朦朧となった。
どれくらい時間がたったのだろう。たったの数十秒かもしれないし、五分ぐらいかも、もしかしたら1時間ぐらい寝ていたのかもしれない。唇に何かがあたる感じがして少し意識が戻った。きっと本か何かが口にあたったのだろうと思ったけど本は自分の膝の上にある。やっと私は微かな光の中で至近距離にあるみやの顔を認識した。キスされたということを意識するのに時間はかからなかった。突然のことに私はしばらく寝ているふりをしていた。やがてみやが雑誌をめくる音が聞こえだしたのでようやく目を開けた。
みやとはすぐに目があった。
「ごめん。寝てた」
「そうみたいだね」
みやは動揺している様子もおかしな雰囲気も全くない。私は少し濡れた唇に手をやろうとしてはっとして手を戻す。みやの視線の前にして口元を動かすことさえためらった。
「どうしたの?」
みやがぎこちない私の様子に気がついた。
「あの、私ちゃんと寝てた?口開けてたりしてなかった?」
やっと出た言葉がこれだ。
「そんなこと気にしてんの?」
みやがくすっと笑った。
「するよ。これでも一応女の子なんだし」
「ちゃんと寝てたよ。可愛い白雪姫みたいにね」
まただ。何か言いたいのに私はみやに何も言い返せなくなる。
「さて。桃も眠そうだしそろそろ帰ろうかな」
「あ、うん」
みやが立ち上がるのと同時に私も腰をあげる。
「駅まで送って・・・」
私が途中まで言ったのをみやは遮った。
「あ、いい。今日寄っていくとこあるんだ」
「そ、そっか」
みやがまじまじと私を見た。さっきと様子があきらかに違う。みやが私に一歩近づいた。みやが顔を近づけてくる。キスされる。今度こそ本気でそう思って思わず目を瞑った。でも唇にその感触は全くなくその代わり髪の毛をそっと触られた気がした。
「はい。これ」
目を開けるとみやが桜の花びらを私に差し出した。
「髪の毛についてた」
みやがそう言って私は花びらを受け取る。
「ありがとう。さっきのがついてきたんだ」
私は必死でごまかした。ほっとするのと同時に何か自分がものすごく恥ずかしいことをしていたことに気づいて私はみやの顔を直接見れなくなった。
「今、何で目を瞑ったの?」
案の定みやは一番痛いところをついてきた。これこそ何も答えられない。
「もしかしてうちがデコピンでもすると思った?」
「や、そういうわけじゃないけど」
私は慌てて否定する。
「心外だな。今まで桃に一度もそんなことしてないのに」
でもみやは笑っていた。私はいろんな意味でほっとした。
「じゃあまた。学校でね」
そう言ってみやが玄関で靴を履いた。短いスカートから見える細い足。外国の人みたいに整った顔に優しい眼差し。全てが見慣れているはずなのに私には、何もかもかけがえのないものに感じる。
「うん。じゃあ学校で」
繰り返すように私は言う。
みやが手をあげて出ていこうとした。
「あ、みや」
確かに私はそう言った。でも頭の中には呼び止めるような要件なんて何もない。
「何?」
みやの動きが止まる。
「やっぱ何でもない」
そう答えるしかなかった。
「言いかけて終わったら気になるじゃん」
「途中まで一緒に行こうと思ったけどやっぱいいや」
私は笑ってそう言った。みやはこう言えば絶対に遠慮することは分かっていた。
「そっか。じゃあね」
案の定みやは納得して玄関の閉めた。みやの姿が見えなくなると私はそっと自分の唇に触れた。途端にさっきの寝ていたときのキスの感覚が蘇ってくる。あれは夢なんだろうか。自分があまりにもみやを意識しすぎているために起こった幻覚なんだろうか。でも唇への感触ははっきりしていたし、薄く開けた目でみやの顔がすぐ近くにあったのも分かった。あれは決して夢や幻覚なんかじゃない。
「どうしよう」という気持ちは自惚れだと自分にそう言い聞かせる。でも、もしみやが私のことを好きだったら、そんな気持ちがみやに1%でもあると思ったらもうそれだけで嬉しい。でもみやが私のことなんて好きになるはずがないという気持ちもあった。
私は部屋に戻った後、もう読んでいた小説なんて手に取ることさえできずに悶々と考えた。たった一つ確かなのは別れたばかりなのにもうすでにみやに会いたいと思っているということ。明日になればまたみやに会える。私とみやがこのまま何も変わらなければ明日も今日と同じようにみやと過ごすことができる。でも私とみやの関係が変わったらそうはいかないかもしれない。みやが当たり前のように親友だったこれまでの日々は何も替えられないほど幸せだった。それを失いたくはない。でもみやに対する気持ちが狂おしいほど大きくなって抑えられそうにない。初めて自分にも人間的な「欲」というものがあることをはっきりと思い知らされた。自分がこのままの状態でみやに会うのは正直怖かった。
朝、起きてすぐに昨日のキスが記憶が蘇ってきた。それでも何も手につかなかった昨日の状態に比べたら少しはましだった。火照る熱は冷めて冷静になれている自分がいた。ただしそれは表面だけのことだった。着替えたり朝ごはんを食べたり、しばらく時間がたつと私の心の中はもうみやのことでいっぱいになる。みやとは同じバスに必ず乗っているから朝のバス停で必ず出会う。そう思っただけで胸が高鳴った。みやのことを好きになるなんて本当に無謀なことだとは思う。でも今日もみやに会える。みやは話すことができないほど遠くにいる存在でもなく、憧れではあったけど私の一番身近くにいてくれる親友だ。人が人を好きになる可能性は星空みたいに無限に広がっているのだと思うけど私はその中でもみやを好きで良かったと思う。みやなら例え嫌われる結果になったとしても後悔しない自信があった。
とりあえずみやと出会ったら意識せずにいつも通りでいよう。あわよくばといろんな「欲」が私の中を駆け巡る。でもみやを好きだからこそそんなことに惑わされない自分でいようと思った。そして私は意を決して玄関を出た。その瞬間だけ私はだれにも劣らぬ勇者だったと思う。
「桃」
呼ぶ声が私の体をつんざいた。
「はあ?みや」
うちの玄関の横にみやが立っていた。
「ど、どうしたの?あ、何か忘れ物?」
動転してる割には頭は冷静に動いた。
「んーん。今日早く出たから途中で桃と会えるかなって。そう思って桃の家目指したら着いちゃった」
みやはおどけるように笑った。みやのそんな姿を見るのは初めてだった。
学校近くの停留所で降りると私達はまた二人で桜並木を歩いた。昨日の桜と同じはずなのに自分の心を反映してか桜がさらに輝いているように私には映る。
「メールでもくれればもっと早くでたのに」
私は言った。
「だからしなかった。きっと桃はそうすると思ったから」
みやはさらりとそう言った。でもそんなクールなみやが今日、どうせバス停で出会う私の家を目指してきたかと思ったら嬉しくなって自然と笑みがこぼれてしまう。好きな人って不思議だ。私はみやに好かれたいとか親友よりもっと近い関係になりたいとかそんな自分勝手な欲を抑えるのに必死で、みやに会ったらそんな感情がますますひどくなると思っていた。でも現実は全くの逆でそんな小さな欲なんてばかばかしいほど簡単に消え去ってしまっていた。
春の陽光が私たちを照らす。それは無数の桜の花に乱反射して柔らかな陽だまりになって降り注いでいた。アスファルトも公園の緑も何気なく置いてあるベンチも全てを温かいピンク色に染めている。自然が奏でるものは永遠に続いていきそうだけど、それは移り気な春の色なのかもしれない。でも一瞬の輝きでもいい。今の私はこの今だけの幸せを心に留めておこうと思う。永遠を望むのは人間のきっと私にも言える悪い癖だ。
教室はいつもにも増して騒がしかった。高校2年に上がって新しく新入生が入ってきたこともあって部活では新入部員の獲得競争やらあの子が一年生で一番可愛いとかそんな話題でクラスはもちきりだった。
「うちは早く温かくなってほしいぐらいだけど」
クラスの喧騒にみやは呆れたようにそう言った。みやと私はそんな話題にはついていけずお互いに苦笑いをするだけだった。
「ちょっとみや!」
そのうちみやもおしゃべりに無理やり巻き込まれてから私は一人席に着く。みやが笑ってクラスメイト小突いたりしていてそれがセクハラだとか言ってはしゃいでる。朝、幸せなことがあったせいで嫉妬みたいな感情は起こらなかった。みやと話してる友達が私が一人でいるのに気づいて私に近づいてきた。変に気を使わなくていいのにと私は心の中で苦笑する。
「嗣永さん、嗣永さんもみやのセクハラ被害にあってるでしょ?」
そして私のほうまで話しかけてきた。みやが簡単に女子の体に触ったりするからそれをセクハラだと言ってるみたいだった。私がみやの近くにいる時間が一番長いからその被害にも一番あっているはずだということだった。
「ええ?全然」
私は笑って冷静に否定する。
「ほら。変な言いがかりしないでよね」
みやが私の応えに満足して言った。
「おかしいなあ。あたしなんて相当被害にあってるよ。この前なんて無理やりチュウされたし」
「ええ?してないよ。何言ってんの?」
みやははっきりそう言った。でも二人のやり取りを聞いたとき、私の顔と心同時に笑顔が消えた。私はわざと視線をずらして黒板を見つめた。感情も気持ちとも何もかもが無だ。愛想笑いも会話に合わせることもできない。私は自分自身に唖然としていた。みやに怒っているのでもクラスメイトに腹が立ったわけでもない。ただみやにキスされて家まで迎えに来られて有頂天になってる自分を見るのが嫌だった。私はノロノロと立ち上がった。
「桃、どうかした?」
みやが急に心配そうな顔を見せる。
「ん。何でもないよ。ちょっと職員室に用事があって。行ってくる」
「うちも行こうか?」
「いい。すぐ終わるから」
本当は用事なんて何もなかった。何とか気持ちを落ち着かせたい。私がただ馬鹿なだけでみやは別に何も悪くない。考えてみたらふざけて友達にキスすることなんて女同士だったら普通にありえることだ。勘違いした自分のせいでみやを絶対に嫌な気持ちにさせたくなかった。
「ちょっと桃?」
みやが追いかけてくる。
気づかれないようにしないといけない。きっと今日1日をのりきればまた明日から何もなかったようにこれまでと同じ日が続けられる。そう信じていた。だから笑おう。何もなかったように笑ってみやの顔を見る。
「だから何でもないって」
出てきた声は自分でもびっくりするくらい細くてやっと聞き取れるぐらい小ささだった。
みやの顔を見ただけで切なくてどうしようもなくなっている自分がいた。自分の感情がなんなのか私にさえわからなくなっていた。
「さっき、うち嫌なこと言った?ごめん。謝るから」
いつもは自信満々で笑顔のみやの顔が青白く、生気さえも失せているような気がした。自分のせいでみやをそんな気持ちのさせていることに胸が痛い。
「違うよ。みやのせいなんかじゃないから」
私はそう言い残して職員室とは違う方向へ歩き出した。
「もも」
もうみやの言葉には振り向けない。みやの優しさに甘えたらますますみやを傷つける。私がうぬぼれただけなんだって自覚できたらそれでいいと思った。
私は一気に走り出した。昇降口を通って校門から外へ出る。もうここまで来たらみやだって追いかけてはこれない。清々しい春の空気が少しだけ私の心を軽くした。私はみやとよく歩いた桜並木まで来た。もうきっとチャイムが鳴って授業が始まっているだろう。学校なんてさぼったって構わない。みやを傷つけることに比べたらそんなことどうだっていい。
みやの親友でいることは自分にとって有り余る程の幸せだ。みやもそう思ってくれているんだったらそれを壊す理由なんてどこにもない。でもこみ上げてくるのは何で私にキスなんてしたんだろうという思いと優しそうなみやの顔ばかりだ。
みやは何も悪くないのについみやのせいにしてしまいそうになる。そんな自分が嫌だ。
どうしようもなくなって近くにあったベンチに腰掛けた。
桜の花びらがちらちらと落ちている。前にみやと一緒に歩いた時はそれを見るだけで幸せな気持ちになれたのに今は全然違う。桜の花が私の心の中で雨のようにしとしとと降っている。
「授業さぼってお花見?だったらうちも混ぜてよ」
ぎょっとして振り返ったらみやだった。さっきのみやとは全然違う。桜の色のせいか優しいみやの顔が戻っていた。
「真面目な桃子姫にしては珍しいね」
みやが私の隣に座って言った。覗き込んでくる顔を見ただけで胸が高鳴ってしまう。
「別に。私だってサボりたいときはサボるし」
私は視線を移した。
「そ」
みやは肯定も否定もせずに私の隣に座ってきた。二人ともしばらく何も話さなかった。そのまま時が経つ。喧嘩してるわけでもないのに気まずい空気が流れた。このままじゃ私はみやに嫌なことを言ってしまう。私は一番大事な人を傷つけてしまうかもしれなかった。
「あの、さ。授業始まるよ。てかもう始まってるか。みや、戻ったほうがいいよ」
「お。やっぱり真面目だね。嗣永桃子さん」
みやが言った
「だから。そうじゃなくて」
強い調子でそう言ったとき私はやっといつもの自分に戻れてる気がした。でもそれはみやの言葉でうち消された。
「うち、好きだな。ももの怒った顔も」
真面目な顔でそう言われたらもう何も言い返せない。みやの彫刻のように整った横顔を眺める。それは私には決して手に入ることのない遠い存在に思えた。
「みや、お願いだから一人にさせて」
「え」
私の言葉にみやは表情を変えた。
私には時間が欲しかった。もう少しだけ一人になって冷静に考えればみやを傷つけずに諦めることができる。みやのことをきちんと諦めてきちんと謝ろうと思った。そのためにつらい気持ちをふるい立たせた。
私は立ち上がる。振り返ってみやを見た。
「大丈夫。しばらくしたら戻るから」
無理やり作り笑いをしようとした。でも全然駄目だった。みやの白い顔が目に映る。私はみやに背を向けて歩き始めた。一歩一歩遠ざかっていくごとに私は二度と同じ場所には戻らないだろうと思った。それは私のみやに対する気持ちでもあり、私とみやとの関係なのかもしれなかった。悲しくて寂しくて涙が出そうになる。それでも私は歩き続けた。
「桃、待ってよ。昨日のことが原因なの?」
元に戻ってはいけない。そんなことは十分分かってるはずなのに、引き止められた私はまたみやに救い出されたような気持ちになった。
「昨日、うちが桃にキスしたから。だから、怒ってるの?」
「違う」
私は首を横にふった。
「ごめんなさい。あんなことして最低だよね」
いつもは凛々しいみやの顔が悲しくゆがんでいる。みやの言葉が胸に突き刺さった。
「本当にごめんなさい」
そして今度は深く頭を下げた。私はずっと首を横にふっている。
「違うよ。そうじゃなくて」
その後の言葉が続かない。
キスくらい友達同士だったら普通にするよね。
あんなのどうってことないし気にしてないよ。
咄嗟に思いついた台詞はどれもふさわしくなかった。
みやは出会ってから今の瞬間までいつもまっすぐに私を見つめてくれた。みやの言うことはいつも正直で私は一度もはぐらかされたりしたことはない。だから私も言わなきゃいけないと思った。
「あのね。みや」
私は言った。みやはまだ叱られた子供のように神妙な顔をしていた。
「私はみやが好き。友達とか親友としてじゃなく」
はっとしてうつむくみやの顔を見て私は予想通りだと思った。こんなこと言ったら驚かせるし困らせるに決まってる。でも何も悪くないみやにあんなに謝られたら私は言わないわけにはいかなかった。
「だからキスされたときね。ものすごく嬉しかった。そりゃ女同士だから無理だって分かってたけど。もしかしたらみや、私のこと好きなのかなって。すごい勘違いだけどそう思って舞い上がってた。それが今朝、学校で自分の自惚れだって気づいてすごく恥ずかしかったんだ。自意識過剰だし、こんな自分嫌だってすごく自己嫌悪」
私は一体どんな顔して言ってるんだろう。すごい剣幕でまくしたてているのか泣きそうになりながら言っているのも分からない。ただ、みやが自分が悪いわけじゃないってことに気づいてさえくれればいいと思った。
「だからみやは何も悪くないんだよ」
絞り出すようにして私は言った。
みやの顔は全く無表情で私が言ったことに驚いてるのか困っているのかもよくわからなかった。そして突然しゃがみこんだと思ったら嗚咽して泣き始めた。
「みや」
私はみやの背中をさすりながら何て自分は駄目なんだろうと思った。結局、自分の気持ちを正直に言ってしまったこともみやを泣かせる結果になってしまった。こんなことだったら何でもないとしらを切ったほうがずいぶんましだったのかもしれない。
「みや、ごめん。迷惑だって分かってたけど正直に言うしか思いつかなくて」
みやはまだむせる様に嗚咽している。みやはいつも凛々しくてカッコよくてこんなに子供みたいに泣いてる姿は初めて見た。
「みや、大丈夫?」
私がそう言うとみやは息も絶え絶えにささやくように言った。
「よかった。うち、桃に嫌われてない」
みやがようやく手で覆っていた顔を見せた。目は赤くなっていたが、その表情は悲しみも困惑も何も残っていないことが私にはすぐに分かった。
「みや?」
言った途端にみやからすごい勢いで抱きつかれた。
「良かったよ。本当良かった」
もも。みやは私の名前を呼ぶとものすごい勢いで抱きしめてくる。
「ちょっと。みや」
私はみやの勢いを支えきれずにみやに抱かれたままそのまま地面にに倒れ込んだ。下は冷たいアスファルト。でもみやは白い歯を見せて笑った。
「やった。両思いになれた」
みやはごくなにげないことのように言った。でも私ははっと息を飲む。そのまま唇が重なった。二度目のキスにもう戸惑いや躊躇はいらなかった。
「体中桜だらけってすごいよね」
みやが私の制服についた桜の花びらを払いながら言う。
「もう。これ全部とれないよ。絶対」
私は泣きそうになって言った。桜が一面に敷き詰められた地面に押し倒されたせいで私の後ろ髪からスカートまで無数の桜がひっついている。
「これじゃ桜の中を遊び回った子供みたいだよね」
私は苦笑いして言う。せっかく告白してもらったのにこんな姿じゃ申し訳ない。
「桃は完璧すぎるからそのほうがいいよ」
みやがそう言った。
「どこが?完璧すぎるのはみやのほうでしょ」
「だって桃は可愛いしカッコイイし王子様みたいだから」
すぐにみやの言葉を否定しようとしたけどみやがあまりにも真剣に私を見つめるから言い返せなかった。さっきのキスの感覚が唇だけじゃなく全身に残っていた。
「最初にバスで出会ったとき、スーツケースに引っ張られてる子を咄嗟に助けたでしょ。この公園でだって小さな女の子に木の枝が落ちてくるの自分で受け止めたりして。桃はこんなに可愛いのに気取らない。だから自然と体が動いちゃうんだよね。うちは臆病だからそんなこと出来ないけど」
「そんなふうに見てくれてたんだ」
私は正直に言って驚いた。みやこそ駄目な自分を温かい目で見守ってくれていると思っていた。
「桃のことは最初からずっと好きだった。それからずっと片想い。桃にはどんなこと言っても通じなかったから」
みやはそう言った。
桜が風に乗って舞うように落ちていく。
「だから魔法でもかけなきゃ振り向いてもらえないと思って」
「魔法?」
「そう。眠り姫に魔法のキス」
みやが人差し指を唇にあてた。
その瞬間に風でも操っているみたいに地面の桜が舞い上がった。まだ冷たいはずなのにその風は一瞬だけ温かくて甘酸っぱい匂いがした。
<終わり>