夏の雨





大雨だというのに、ぎりぎりのところでバスに乗り損ねた。ため息をついて私は、誰もいない停留所の先頭に立ってバスを待った。

見上げれば一寸の雲間なく分厚い灰色が空全体を覆っている。雨は地上に向かって矢のように注ぎ込んでいるように見えた。今日の花火大会はきっと中止だ。元々行く予定にもしていない花火大会が妙に気にかかった。次のバスは雨を跳ね除けながらゆったりと巨体を揺らして、停留所の縁石の横に正確に止まった。ドアが開く瞬間にけたたましい機械音を聞くと、ふいに目的地で待つ女の子のことを思い出して気が重くなった。それはこんなボランティアをしていることに対する自己憐憫でも相手への哀れみでもない。単に相手に合わせることに対する億劫さだった。

 東京から千葉方面に向かう電車はどれも水平に走っていて、彼女の家は私が通っている学校の沿線からちょうど垂直方向にある。最寄りの電車の駅はなく、わざわざ隣の駅に移動した上で、バスにも乗らなければならなかった。そのことも彼女に会うことが次第に気重になってきた一因でもあった。

 一人がけの席に座るとスカートがべったりと足に張り付いてさらに嫌な気持ちにさせた。

 「明日は発達心理学のレポートを出さないと」

 今週はレポートだけでなく、実習テストも重なる週だ。本当はボランティアなんてしてる場合じゃないのかもしれない。今日をその日に選んだことを私は後悔した。バスは大きな通りから次第に道が狭まり住宅街に入っていった。彼女の家は、何駅か進んだ古い下町商店街の近くにある。

 機械的にバスをおり、雨の中を早歩きで歩いた。汗と雨がまじって不快な道のりだった。ここ何日太陽を見てないだろう。いくら何でも4日連続で雨なんてありえなさすぎる。全く不愉快な雨だ。

 やっとのことで私は聖来の家の前に立った。

 私は、乱暴に玄関を開けると中にずかずかと入っていった。習慣て恐ろしい。ここに来るのももう何十回目だろう。

 リビングに入って勝手に冷蔵庫を開ける。中身はがらんとしていて、これでは夕食の料理を作るにも心もとなかった。おばさんはまだ買い物行ってないのかな。そんなことを思った。

 「瑞希」

 ゆっくりとした声が聞こえた。一瞬ぎょっとして振り返ったが声の持ち主の姿は見えない。どうせいつものところだろう。彼女のいる場所はたいてい決まっている。

 ふふん。あたしは鼻をならすと台所から縁側のある部屋まで足を運んだ。

 昼間だというのに暗く静まり返った部屋に少しだけ光が差し込んでいるのが見えた。部屋へ進むとつんとニスみたいな鉱物の匂いがした。そこには最近始めたらしい油絵の道具やイーゼルなどが置いてあった。そして私の思ったとおり、彼女は穏やかな顔をして縁側の木の椅子にすとんと座っていた。椅子には様々な毛布やエプロンや服のようなものが無造作に被せてあった。彼女は身に付けている服と共に椅子に吸い取られるように同化していた。栗色の髪が美しい。フランス人形のような肢体のせいで彼女は精緻な置物のように見えた。

 「聖来、よく分かったね」

 彼女は姿も居る場所もいつもと何も変わらない。分かってはいても私の声は少し緊張して上ずる。

 「分かるよ。瑞希の足音は玄関が鳴ってすぐに、たたんたん」

 彼女の口がわずかに笑った。聖来の目は本来の機能をほとんど果たしていない。

 「絵の調子はどう?」

 聞いたあとにしまったと思った。隣室のイーゼルはからっぽで描きかけの絵もない。

 「ああ、まずまずかな」

 聖来は少し気まずそうに応えた。聖来は先週、突然絵を描きたいと言い始めた。でも聖来はこれまで絵なんて描いたこともなかったし、目が見えないのに描きようもないはずだった。

 「気分良さそうだね」

 私はわざと話題を変えて言った。聖来は目を瞑ったまま微笑んでいる。

 「雨の音が心地いいんだ」

 聖来は、この蒸し暑さにも関わらずニットのカーディガンを着ていた。聖来の隣に置いてある椅子に座ると、何だかひんやりした。それは一瞬の心地よい冷たさだった。ただ冷たいだけじゃない、何か感覚が研ぎ澄まされるようなある種独特の冷感だった。

 「外、すごい蒸し暑かった・・・。」

 バス停からの通り道があまりにも不快で私はそう言った。

 「水も、空気も?」

 「え?」

 私は少し驚いて聞き返した。聖来の視線は常に宙をさまよっていて、私のことをしっかり見て話すことはできない。だから時々言葉を聞きもらしてしまう。

 「外は水も空気も蒸し暑かったんだ?」

 聖来はもう一度そう言った。

 不思議だった。聖来が話せば外の世界を渾然と覆っていた水と空気が瞬時に切り離されて、途端に元の透明な存在に戻ってしまうみたいだ。

 「そりゃ夏の雨だもん。道路も電柱も塀も雨でびしょびしょだよ。そしたら壁も地面もぬめっとしてて気持ち悪いぐらい」

 私は、聖来の言葉を振り切るようにわざと大げさに言った。

 「びしょびしょになったらどう見えるの?」

 「うーん。黒ずんで見える。まるで墨をたらしたみたいに。」

 「そっか。でも不思議だね。水は透明なのに黒ずんでみえるなんて。でもあたしには分かる。道路も電柱も塀も元々もっと濃い、黒色なんだよ。水で濡れるとそれを隠しきれなくなるんだ」

 また聖来は笑った。

 私はボランティアで、体にコンプレックスを持ったこの少女の話し相手をしている。この子は障害を持っているからあまり人を疑うことも知らない。心は純粋で、つきあいやすいかもしれない。でも私は、友達にはなれないと思う。なぜなら私と聖来では持っている世界が全然違う。そして聖来はずっと自分の思考の中だけで生きている。聞いただけで全てを見通す千里眼の超能力者。そんな風に装うことで、この子は盲目の自分自身を慰めていた。

 「もっと外の話をして。この前みたいな、花火の話を」

 聖来は、今度はせがむように言った。すでに機能を失った聖来の瞳孔がダークグリーンの翡翠のような輝きを持った。

 「花火は・・・今日は中止だよ」

 私はこの前花火大会の話をしてしまったことを後悔していた。私は、いつも聖来のことを考えずに話しすぎてしまう。先週もつい聖来の目が見えないことも忘れて今日行われるはずの花火大会のことを無頓着に話してしまった。気づいたときには時すでに遅しだ。それでも決して見ることのできない花火を、聖来はとても楽しみだと言った。

 私は、ずっと花が好きだった。でもいつ散るか分からない花は怖い。桜の散り際は嫌でたまらない。それに比べたら花火はいい。花火には悲しんでいる余裕なんてない。真っ暗に散りゆく一瞬前が至福の時だ。満天の夜空を支配したきらめくような胸の高鳴りだけがそこに残る。

 私は、その花火を散々聖来に語った。地上には色とりどりの浴衣を着た人が一瞬の光に照らされる。その瞬間に夜空は赤と青と朱と緑の限りない美しさで彩られる。聖来には決して見えるはずのない芸術だ。残酷だ。私がしたことは、ものすごく残酷なことなのかもしれない。

 「中止?雨だから?」

 「そう。雨の日は花火は打ち上げられない」

 私が言った瞬間ふっと聖来の笑みが消えた。

 聖来の手が私の頬にさっと触れた。一瞬なのに聖来から何かが流れたような気がして私はびくっとして震える。

 「瑞希は花火大会が中止になって、悲しんでいるんだね」

 触られただけで何かが悟られるなんて私は信じてない。

 「そんなことないよ。元々行く予定にもしてなかったから」

 私はできるだけ聖来が気にしないように明るい声で言った。私は花火のことなんて考えもしていない。花火なんてなくても私は毎日を十分すぎるぐらい楽しんでいる。ただ聖来が見えもしない視覚の世界を雄弁に語ってしまう自分が嫌なだけだ。そして語るわりに何一つ正確に答えていない気がした。 

 聖来に話す私には私の世界しか存在しない。見えない聖来を置いてけぼりにしてまるで自分だけが正しいかのように。私が気付かないものはまるで存在しないかのように。だから聖来は一方的な私の話に惑わされて自分の世界に閉じこもってしまった。そして虚構のビジュアルに埋め尽くされた悲しき偽の千里眼になってしまったのだ。もし聖来の美しく深い濃緑の目に光が灯ったらどんなに世界は燦然と輝くのだろう。 

「今日、花火が見えるよ。」

 聖来の言葉は唐突だった。その顔にまた微かな笑いが戻ってきていた。聖来の表情に確信めいた強い意志を感じて私は動揺した。

 「うん。そうだね」

 私は、それだけ言って買い物にでかけることにした。今日は、聖来に雨と蒸し暑さの愚痴を言いに来たわけじゃない。買い物に行っておいしい料理を作る。とにかくボランティアに来ている以上この子のために出来ることをしたかった。

窓からは、すらっと明るい街灯の光が見えた。私は、あたりがすっかり暗くなっていることを悟った。

 聖来と話していると時間も温度も記憶も曖昧になる。まるで別世界に来たみたいだ。

たたん。この床を鳴らす私の足音もきっと聖来に届いているのだろう。聖来の鋭敏な感覚を後ろに感じながら私はドアを急いで開けた。

 外はすでにほの暗い。夕刻のちょうど花火大会に出かけるような時間帯。一瞬浴衣の女の人の姿が目のどこかに映ったような気がした。思い出したのか湧いてきたのかはわからない。花火が打ち上がるときの空をつんざくような甲高い音がした。気のせいだと思って耳を澄ませると、今度は体の重心を震わすような火薬の破裂音が足先まで響いた。でも、それはあきらかに私の体の中だけで発した音だった。

 聖来の花火が見えるという言葉を思い出した。まさかそんなはずはないとふと上を見上げると、そこには本当に花火があった。でもその花火は虹色に光ったまま全開に開いて消えることがない。はっとして食い入るように見つめた。それは本物の花火ではなく、黒いキャンバスを下地にした巨大な油絵だった。それが雨よけの玄関の庇に貼り付けてあったのだ。

いつかどこかで見た花火。ずっと心に住み着いている花火。強い既視感がして私はめまいがした。聖来にさんざん語り尽くした花火。私はその時はっとして聖来に言った。 

「ごめん。花火のことなんて聞きたくないよね」

 聖来は首を横にふった。

 「瑞希だけだよ。あたしの目になってくれるの。雪が白いことも、水が透明なことも、花がきれいなのも、火が赤くて花火が美しいことも全部、全部瑞希が教えてくれたんだ」

濡れた土壁もコンクリートの電柱も真っ黒で本来の裸をさらすようにぬめって光っていた。ちょうど雨がやんで雲が千切れ、微光が差し込んでくるところだった。



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