魔術師







 恐らくこんなに高粘質な温かい水滴を浴びたことがないのだろう。馬鹿げたことだが、この雨がどこから来るのか不思議に思って空を見上げた。近くに街灯があったおかげで、暗い海から細い光の筋が舞ってくるのが見えた。

 レザーブルゾンの中がひどく蒸した。

あたしの季節じゃないと思った。

蜂蜜のような雨が体にまといつく。いっそ氷柱が降ってきて体を貫いてくれたほうがましだ。体の中で張り付く水滴の一つ一つは、体ごと凍り付けばよいと思った。

 とにかく今はあたしの季節じゃないのだ。

 「あいつ、ドタキャンかよ。」

 闇に向かってあたしはつぶやいた。少し歩を進めて分厚い幹の木蔭に入った。公園の中央にある噴水台だけが、選ばれた物のように街灯に照らされている。周辺を取り巻く木々は折り重なって暗い大きな森を作った。時折、森からコウモリが飛び出し、街灯の周りを悠々と旋回した後どこへともなく飛び去った。

 こんな薄気味悪い公園で女同士が待ち合わせなんて、多分あたし以外誰も来なかっただろう。いや、この待ち合わせ自体があいつの冷やかし以外の何物でもないのだ。そう思ったらこの公園の中で待ちぼうけを食わされている自分が何故か当然のように思えて、またしばらく木蔭の中で立っていられた。

結局いくら待っても侑美は姿を現さなかった。

翌朝は、うざいぐらいに快晴だった。ちじれた雲も一つたりともない。ただ真っ青な空は、青すぎて凝視すれば、青い皮膚の内側に真っ赤な血がどくどくと流れているように見えた。

アスファルトの通学路は、嫌味のように蒸し暑い。学校の校門は白々しく清純な様相を見せ付けている。さらに校門に二人の教師が立って生徒に挨拶をしているのを認めて、あたしはいったん高校にいくのをやめた。きっと朝から馬鹿げた会話で一日を始まらせるのが気に食わなかったのだ。

あたしの足は自然と昨日の公園に向かっていた。向かっている先が鬱陶しい高校でないというだけで幾分の涼しさを感じた。あたしは、昨日の不気味な公園にもう一度立ち戻りたかったのかもしれない。 侑美が指定した公園はちょうど高校の裏山の中腹にある。学校の校門を迂回して裏山の麓の道を延々歩いてから分岐して山を上る。休みの日でもない限り、人は訪れない寂しい公園だ。

 蝉の声が鳴り響く公園は昨日の不気味さをなくし、みすぼらしい噴水と虫がこびりついた街灯を無残にさらしていた。鬱蒼とした木々だけが、いっそう勢いを増し公園をずんぐりと囲んでいた。

 公園の中心にある噴水に近づこうとすると太陽が一層ぎらぎらと照りつけ、あたしの行く手を阻むようだ。熱線に屈したかのように噴水の水は枯れていた。噴水口は噴水台の一番上にあってまるい形をしている。大理石で作られていて、そこから水を溢れ出させている。しかし水力が弱いためか、水の出は傷口から滲み出る血液のように滞り、茶色い錆に覆われて今にも止まってしまいそうだった。

 おかしい。

昨日は勢いよく水が流れ、噴水の水を満たしていたはずだった。一夜にしてこれほど水圧が変わるものなのだろうか。私は干からびた噴水の池の中に進入し、球形の噴水口をまじまじと眺めた。そしてあたしは球体の下に何かが挟まっているのをみつけた。それは雑巾のようでもあり何かに布切れが巻きつけてあるようにも見えた。その物体を引き剥がすと勢いよく水が飛び出た。巨大な水玉があたしの頭上を降って来る。あたしはすぐに噴水を離れようとしたが、手にもっていたその物体があまりに奇妙なもので一瞬その場に立ち尽くした。それは細い木を包帯でぐるぐる巻きに覆っている手の平ぐらいの異様な人形だった。

 途中から入った全校朝礼であたしは、侑美が昨日自殺したことを知った。

侑美の死。

事実だけを元にして学校は騒々しかった。朝礼では亡くなったというだけの話しが、教室では自殺という話しが飛び交い、首吊り自殺だということも確定的な情報として伝わってきた。

自然、侑美と同じクラスのあたし達に噂の中心は集まる。いつもより、2、3段低いトーンで交わされる女子達の噂話はそれだけで、言い知れぬ呪文を唱えあっているように仄かに聞こえた。

 クラス委員だった侑美は人気者だった。時折見せる冷酷な落ち着いた表情があたしには魅力的に映った。侑美は、黒髪に真っ白な肌が古い人形を思わせる美少女だった。

 四時間目の授業が終わった後で、案の定あたしは職員室に呼び出された。

 「工藤さん、昨日斎藤侑美さんと待ち合わせをしていたんだって?悪いんだけど明日警察の方に行って少し事情を説明してくれますか?」

 やけに静かな職員室に担任の棒読みのような台詞が響いた。

 「はい。」

 後から担任がショックだろうけど気を落とさずに云々言っていたが無視した。あたしは自分でもよく分からないことに巻き込まれるのがとても苦手らしい。

放課後になると、学内は一気にいつもの雰囲気を取り戻したかのように感じる。かったるい肩をのばして、めいめい自分勝手に行動を始める。

教室の窓からは真っ赤な夕焼けに見えるというのに教室の中はひどく暗く、暗室に人間が蠢いてるようだった。

「怜子、あなた知ってる?」

久しぶりに自分の名前を呼ばれた気がした。侑美と一番仲がよかった野村亜希が目の前に立っている。真っ赤に充血した目を見て、あたしは一瞬怒り狂った夜叉のお面を連想した。

「何が?」

「侑美が死んだの。事故じゃないかって。」

「事故って?自殺じゃないの?」

「だって。感電死でしょう。普通自殺するのに自分の体に電気コード巻きつけたりする?」

少なくともあたしは、その死に方は選びそうじゃない。

「感電?みんなが言ってる首を吊ったっていうのは?」

「怜子は知らないんだ。あれは、ごまかすためでしょ。普通の死に方じゃないから。」

あたしはここまで話してやっと亜希の目の充血が、侑美の死に対するものを表すことに気づいた。

「あなた、何か知ってるの?」

「あたしは、侑美と仲がよかったから少し分かるんだ。」

亜希が一瞬周りを見回した。周囲には、数人の生徒が残っているだけで誰もあたし達に目を向ける者はいない。

「侑美は黒魔術にはまっていたのよ。体中に電気コードを巻きつけたのはきっと何かの儀式のために違いないよ。」

魔術。

となるとあの公園を侑美は魔術の儀式に使おうとした。ふっと侑美の謎めいた横顔が浮かんだ。それなら何となく説明がつく気がする。公園で見つけた怪しい人形も何らかの魔術に使うものなのだろうか。

「公園で変な人形を見つけた。包帯みたいなものが巻きつけてあった。」

あたしは今日公園で見た人形を思い出して言った。

「それは魔術の儀式で使うものよ。間違いなく」

亜希は感嘆とため息をもらした。

「あんた、黒魔術に詳しいの?」

「侑美から何度か聞かされたことあるんだ。きっと侑美は死ぬ気なんてなかったんだよ。公園であなたに協力してもらって、何か魔術を使おうとしていた」

「魔術の儀式をしていただけで、侑美は最初から死ぬ気なんてなかったってこと?」

あたしが尋ねると亜希は大きく頷いた。

「そう。じゃなきゃ侑美の死ぬ理由なんてない」

気がつくと教室は真っ暗になりあたしと亜希以外は誰もいなくなっていた。黒い雲が空に広がり、微かに残った夕焼け絵画のように窓の片隅に残るだけになった。代わりに風が教室の窓をカタカタと揺らした。

 「ふん。馬鹿らしい。もし魔術なんて信じてるならあんたも侑美も相当オメデタイ人間だね。」

あたしがそう言うと亜希は黙りこくって俯いた。

 「でも侑美がその魔術を使おうとしたことは間違いないんだ。」

 亜希が呻くように言う。

 「だけど、あの日は、誰も来なかった。侑美はあたしが公園で待っている間に自分の意思で自殺したんだよ。」

 あたしは言い残して教室を出た。後に亜希の泣く声が聞こえてきていた。 

学校から外へ出ると、空は幾分明るさを取り戻したように感じた。しかし夕刻になり、さっきからのどす黒い雲は相変わらずで、裂け目から太陽の残光をむなしくしていた。人の生き死にに対してあたしは語る術もなく、感慨もない。だから侑美が訳の分からない魔術を信じて死んだのならそれも一つの生き方かもしれない。あたしみたいに現実しか見ないでこれから生きていくより、遥かに夢のある生き方だろう。だけど、侑美が感電した瞬間を思うと何故だか裏に大きな策動が存在するように感じて仕方がない。侑美はあの人形に殺されたのかもしれない。あの意味不明な不気味な棒切れ人形が、恐ろしい残像を伴って目の前に現れてきそうな気がした。

あたしは、どうしても事情聴取の時の刑事の反応が気になっていた。

刑事二人は、あたしが侑美から連絡を受けた時間、場所、その時のメール、を優しく、しつこく聞いてきた。同じことを2回尋ねるときの鋭い眼光は受けていて身を圧迫された。しかし侑美の不可思議な行動は昨日からずっと胸の内で反芻しつづけたことで、あたしの応えに変わりはなかった。

「最後に少し変なこと聞いていい?」

年配のおばさん刑事が言った。

「侑美さんが、最近魔術みたいなことをやっているって聞いてなかったかしら?」

「ああ。それは、昨日侑美の友達から聞きました。侑美が黒魔術の儀式に凝っていたって。でもあたしは侑美から直接そんなことを聞いたこともないし、人からも聞いたことがありません。少なくとも侑美が生きていた時は。」

「そう。分かったわ。」

刑事二人はお互いにうなずきあった。

「侑美は魔術の儀式をやって死んだと思っているんですか?」

「よく分からないけど、蝋燭と人形のようなものが部屋に散乱していたわ。遺体は黒こげになっていてよく分からなかった。電流をコンセントから流して、それで感電した可能性が強いわ。」

「いや、もっとよく調べてみないと分からないけど。このことは学校とかではあまり言わないほうがいいな。亡くなったお友達のためにも」

刑事達は言いよどんだ。この人たちは、きっと何かを隠していると思った。

警察署を出ると、あたしは彷徨うような足取りで通りを掛け出た。昨日からの天候不順が続いているのか、まだ昼だというのに、空に暗雲が立ち込めつつある。太陽だけがぎょっとするくらい赤く、真っ黒な画用紙にバーミリオンを垂らしたように、黒雲との乱反射を繰り返していた。あたしの足は侑美の家に向かっていた。

侑美の家は最近出来た新興住宅地帯にある。どれもこれも同じような家と曲がり角が続いた。空は、時折激しく雷鳴が響いた。傘をもっていないあたしは、焦って同じところをぐるぐると回らされている気がした。それでも侑美の家はいつもと変わりがなかった。

「昨日も野村さんが尋ねてきてくださったんですよ。」

侑美の両親は深々と頭を下げる丁寧な人たちだった。あたしはお焼香を上げた後、侑美と待ち合わせをしていたことを告げるとお母さんは大きく頷いた。

「侑美の死でどうしても納得できないことがあるんですけど。侑美の部屋を見てもいいですか?」

あたしは単刀直入に言った。侑美の両親は申し訳なさそうにも断った。まだ警察の捜査が残っているため、部屋のなかのものを人に見せたりはできないのだと言う。それに部屋には事故のときの爆発で、見せられる状況ではないそうだった。

「じゃあ、救急箱を見せてもらってもいいですか?」

あたしはあたりを見回して言った。

「娘の死と何か関係があるのですか?あたし達がいない間に何があったんでしょうか」

「いえ、まだ分かりませんけど少し気になることがあるんです。何か分かったら必ず伝えにきますから。」

侑美の両親は、靴箱を開けて救急箱を取り出してきてくれた。

携帯の振動が亜希からの着信を知らせていた。

 「侑美が何をしようとしていたか分かった。侑美はきっと今日、復活するつもりだよ。魔術の力で。儀式はまだ途中だったんだ。」

 亜希の声は落ち着いているようでもあり、震えてもいた。アンバランスなおかしな声だ。

「侑美は待ち合わせの魔術を使おうとしていたんだ。」

「待ち合わせの魔術?」

「その人が絶対来ると信じていたら2日後に本当に現れる。その人の生き死にに関係なく。昨日侑美の家に行って魔術の謎が解けたんだ」

「そんな馬鹿なことがあるわけないじゃない。」

あたしは突き放すように言う。亜希が興奮して話すから自分の声まで興奮して聞こえていたら癪だと思った。

「とにかく、今から公園に来て。それで全て分かるから」

全てが分かるのはどっちだろうとあたしは思った。誰の魔術だろうと人の生命には関わりがないのだ。侑美の家を出た頃から雨が落ち始めた。

公園につくころにはびしょぬれになることは分かっていたが、あたしは亜希の言うとおりにしようと思った。今、この最悪な時を逃しては彼女は魔術を信じ続けることをやめないかもしれなかった。街にはざあざあと黒い雨が降り注いでいた。

公園までの道は薄暗いもやに包まれていた。走っているといつもの公園とは違う気がした。雨が髪に染みて次第に額におりてくる。道の途中で振り返ると、眼下に見える学校がライトに照らされて緑色の光を放っていた。 公園に着くと、異様な真っ赤な傘がいきなり目に入った。亜希が噴水台の前に立っている。そして公園の周囲を囲む木からは無数の白い人形が木からぶら下がっていた。

「これも儀式のつもり?」

公園のライトに照らされた人形があたしを威圧する。 あたしはとにかく落ち着く必要があると思った。

「やっと分かったんだよ」

「何が?あんたが頭がおかしいってこと?」

あたしは木からぶら下がる人形の一つを手に取った。細くて硬い針金に包帯が巻きつけてあった。

「侑美がしようとしていた魔術。待ち合わせの魔術。」

亜希はゆっくりと傘を閉じた。

「この公園は魔方陣を作るのにちょうどいいんだ。ここで一人人間が中心に立つと自然に結界ができる」

亜希は周りの木を指差した。

「大きな5本の杉の木があるでしょう。これを一本おいて隣の木と線で結べば5星形ができる」

5つの木にはそれぞれ白い人形がぶら下がっている。亜希は5本の根元まで行くとランプのようなものを一つ一つに置き始めた。

「召喚ペンタクル」

亜希は空に向って叫んだ。

「侑美は昨日、魔術の力をこの魔法円から取り出したんだ。そしていったんためたエネルギーをここから出そうとしてる。」

「馬鹿らしい」

亜希はあたしの声を聞いてにこやかに笑った。

「侑美はきっと復活するよ。魔術の力でね。でもあなたの協力が必要なの」

「なぜ?」

「侑美が必ず戻ってくると念じなければならない。その力が強ければ強いほど魔術は本当の力を発する」

空から雷鳴が轟いて、一瞬あたりが静まる。やっとあたしは話ができると思った。

「それは嘘ね」

あたしは言った。

「少なくとも待ち合わせの魔術なんてどこにも存在しない。この魔術はあなた自身でさえ信じてない」

初めて亜希の表情に動揺が走った。

「この針人形じゃ効力はない。あたしは魔術なんて信じないけど。少なくとも魔術に傾倒するあなたが使ってるのはこんないんちきな人形じゃないでしょ」

「あなたは魔術を知らないのね」

亜希は震えながら言った。

「知らない。だけど針金で作った人形をあなたが魔術に使うなんてありえない。あたしは本物の人形を見てるから。その噴水台の下でね。あたしが見たのは細い木に古い布が巻きつけてあったわ」

「それは、侑美が作ったものかもしれない。侑美はいろんな魔術に長けていたから」

「それもありえない。あたしが噴水台の下で木の人形を見たのは、侑美が死んだ後だからね。昨日の公園にはそんな人形はなかったわ」

あたしは首を振った。

「侑美を感電死させたのはあなたね」

「あんた、何言ってるの?」

亜希が夜叉の表情を見せた。昨日、悲しみに暮れたあの顔だった。だから余計にあたしは落ち着いて言った。

「この人形の針金は、侑美を感電死させるために使ったものね。凶器を隠すためにあなたは侑美を殺した後、このいんちきな針金人形を作った。包帯も全部侑美の家で使われてた。侑美の家の救急箱を調べてすぐにわかった。」

亜希の顔が周囲の青白いランプに照らされ、白く妖しく見えた。

「あんたも侑美と同罪の人間のようね。魔術を信じようとしない。何かにつけ理由をつけてあたしを小馬鹿にしようとした」

亜希の唇が小刻みに震えている。

「あなたが昨日魔術の話をしたのは、警察の目をごまかすためね。事前に侑美と魔術の話を吹き込んでおいて、あたしから警察に侑美が魔術を使って事故死したと話させようとした。侑美は最初から魔術なんて信じてなかった」

あたしは亜希に近づいて言った。

「そういうことね」

亜希は懐から何かを取り出した。

「これが呪いに使う本物のポペットよ。確かに針金で作った人形なんてガラクタね」

亜希は突然、空を仰いだ。

あたしは、これでもう一つ謎が解けたと思った。恐ろしい雷鳴が轟いて木々がざわめいた。

「あたしが噴水台で見た本物の人形は呪いのために仕掛けられた。あなたは呪いを本当にするために侑美を殺した」

「そうだよ。全部あなたの言うとおり」

「じゃあ侑美があたしをここに呼んだ理由は何?」

「さあ。どうかしらね」

亜希がそういうとライターを取り出しいきなり人形に火をつけた。やがて人形の頭にまで火が燃え移ると亜希は地面に人形を落とした。

「待ち合わせたかったのよ。あなたと。あたしを裏切ってね。だから殺してあげた」

侑美が噴水の泉の中に手を入れた。中から鉛色をした斧を取り出した。

「死にな」

亜希は勢いにまかせて斧を振り下ろした。



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