皇帝のいない夏
 

亜弥は大きくて白い巨像の肩にのっていた。優しくて力強い肩だった。
周りには一面の白い花。
地平線の彼方までそれはつづいた。
よく見ると背丈の高い花も低い花もある。グラジオラス、それともユリだろうか。
穢れのない色が一面に広がっていた。
ところが、巨像は亜弥をのせたままゆっくり倒れていった。
不思議なことに音が聞こえない。
落ちる。落ちていく。
そんな夢を見た。
 
目の前で美貴が亜弥を睨みつけている。
「もう聞きたくないね。亜弥ちゃんの言葉は。」
「何も喋ってないよ。あたし。」
亜弥は夢のことを考えていた。ふわり、ふわりと落ちていく頼りげない感覚。あれは夢だけじゃない。今もこの時間にある。
「いいかげん後藤真希の話しは聞きたくない。」
美貴は呼び捨てで後藤真希と言った。
「だから何も言ってないって。」
蒸し暑い晩だった。冷や汗が出る。生ぬるさが血がしたたっている感じを思わせた。
亜弥は胸ぐらを思いっきりつかまれた。体は恐怖で鳥肌がたったが、心の方はいたって平然としていた。
ばしっ。
平手打ちされた。頬に理不尽な痛みが走る。もう一発はこなかった。
「弱くなったね。美貴。」
亜弥は言った。また何かしようもんなら噛み付いてやる。
美貴は顔を少しのけぞらせた後、亜弥の右腕をつかむと思いっきり引っ掻いた。
「いっ」
皮がむけて血がにじんでいる。傷口に汗が入って少ししみた。亜弥は今度は何も喋らなかった。そして近くに置いてあったラジカセを慎重に抱えると思いっきり美貴に向けてなげつけた。驚いて美貴は亜弥から少し離れる。ラジカセは美貴を掠めて脆いプラスチックの音を立てた。中からCDが飛び出してドアまで転がっていく。
目の前に美貴の「目」が座っている。それは動物的なのにひどく切ない。悲しいぐらいに切なかった。
服を思いっきり破かれた。残った両肩の服を持って部屋中を引きずりまわされた。
亜弥はたまらず美貴にかみついた。と同時に壁に投げつけられた。背中を強く打って息ができない。
美貴はハイエナのように亜弥に近づくと唇に噛み付いてきた。苦しくて意識が遠のく。
力が抜けた。
「もう終わり?今日は泣かないんだ。亜弥ちゃん。」
美貴が言った。美貴はほっとしている。泣かす力なんてもともとないんだから。そう思ったら亜弥は急に余裕が出てきた。ハイエナは亜弥の様子を伺うように見ていた。
「ねぇ、亜弥ちゃん。」
亜弥は美貴を無視してそのまま部屋に大の字に寝転がった。こうやって自分をごみみたいに投げ出して置くのが心地いい。美貴は抵抗する自分に乱暴できても傷ついてごみのようになっている自分には何もできないのだ。
「ねえ、亜弥ちゃん。ごめんごめん。やりすぎた。」
 案の定、美貴が急に甘えた声を出した。
 亜弥は仕方なく笑って首をかしげた。
「でもごっちんとつきあうのだけはあたし反対だから。」
美貴が上から覗き込んでいる。
「後藤真希は危険だよ。ごっちんは松浦亜弥にさえ勝てば何とかなると思ってるからさ。あたしみたいに味方じゃない。」
「危険?」
亜弥の頭の中にごまっとうの時の「後藤真希」の横顔がよみがえった。ひたすら上だけを見て上ってる。そんな強い印象の人だった。
「勝つためには何でもしてくるってことだよ。相手を壊してでもさ。」
 壊されてもいいよ。亜弥は思った。このまま落ちて行くよりは。そんな覚悟はとっくにできてる。あの人なら助けてくれるのかもしれない。対して目の前に自分を壊すことさえできない人間がいた。美貴は暴力で亜弥を汚したいだけ汚していた。美貴は自分より「上」である亜弥をごみのようにあつかってやっと平衡感覚を保っている。だけど美貴はごみの亜弥を壊せない。弱いんだ。美貴は。
あたしに負けることも
あたしを失うことも。
モーニング娘。で一番になれないことも。
なにもかも美貴は怖いんだ。
 
モーニング娘。が落日の太陽であることはずいぶん前から気づいていた。それを感じるたびある種の空虚感に亜弥は襲われた。自分を上から覆うものは何も無い。自分を下から支えるものも何も無かった。
「美貴ちゃんさ。いいかげんモーニング娘。あたしに代わってよ。あたしだったらもっと人気出るよ。」
亜弥は言った。
「うーん。そうかもしれない。」
美貴は軽く笑った。
そこは流すんだ。
さっきの余裕が蔑視の視線となる。
亜弥はその日、初めて美貴を睨みつけた。苛立ちも不安も虚無感も夏の湿度に汚染されて何一つ言葉に出来ない。腕の傷口がまた染みた。
 
 地べたのアスファルトから熱がにじみ出ていた。それはマグマ溜まりの炎のように思いやりなく人を包む。暑い。亜弥にとって真夏のロケはいつもこんな感じだ。でも今日はまだいい。今日のロケはモーニング娘。と一緒だった。そのことが少しだけ亜弥の気持ちを軽くしていた。だが肝心の後藤真希はいなかった。
 亜弥は飯田の姿を認めて近寄っていった。飯田は、衣装合わせが終わったばかりで所在なさそうにしている。亜弥は年の離れていることもあって飯田とそんなに話したことがない。
「飯田さん。」
そばには行っても何から話し始めたらいいか分からない。
「おー。松浦、藤本から少し聞いてたけど最近元気ないんだって?」
じくっと胸を突かれた気がした。
「あはは。そんなことないですよぉ。元気です。」
亜弥は無邪気に笑った。
「飯田さんこそ大変なんじゃないですか?安倍さんもいなくなって。」
「だねー。もう最近は後輩だけじゃなくてキッズとかの面倒もみなきゃいけないから大変だよ。」
飯田は言った。
「松浦じゃん。久しぶり。」
ちょうど矢口もそばにやってきた。
「しっかし暑っついね。キッズなんかもうばてばてだよ。松浦の姿も見習わなきゃ駄目だね。」
にこやかに話す矢口の様子は数年前と全く変わらなかった。
飯田と矢口を見ると亜弥はうらやましいような少し寂しい気持ちになる。
あれ。と矢口は言うと亜弥の右腕をとった。
「松浦。怪我してんじゃん。どうしたの?」
言われて亜弥は咄嗟に右腕を後ろに隠した。
「あ、これは料理をしてるとき切っちゃったんです。松浦ドジなんですよ。」
亜弥はわざと大げさに笑った。
傷が分からないように肌色のテープをしていたがやはりそれでも目立ってしまう。
「そ、それより大事な話しがあるんですけど。」
そのまま笑顔を保つのが大変だった。また浮遊するような虚無感。以前なら嘘でも笑いつづけられた。もう自分は仮面さえかぶっていられない。苦しい。
「あたしをモーニング娘。さんに入れてください。」
言い終えてやはり亜弥の顔から笑顔は消えていた。あまりに現実味のないその言葉。
「あはは。松浦何冗談言ってんの?」
「いまさらあたし達のグループに入る必要なんてないでしょ?」
二人は口々に言う。
「あたし、本気で入りたいんですよ。」
どんな言葉を発しても伝わりそうになかった。夏の暑さのせいだろうか。人と人の間に起こる沈黙も欺瞞に満ちている気がする。
「あたし、やりたいんです。」
しばらくしてまた言ってみた。だけどマグマ溜まりの炎は言葉さえも陥れた。
「ははは。そっか。藤本が娘。に入ったからそれで寂しいんでしょ。」
飯田の言葉で一気にその場は好意的な空気に包まれた。
「暑いのに妬かせないでよ。」
亜弥は眩暈を感じた。
 
別にモーニング娘。を馬鹿にしてるわけじゃない。
あきらめてるわけじゃない。
あたしが入らないと。
あたしがやらないと駄目なんですよ。
自惚れなんかじゃない。
おせっかいでもない。
 
「松浦さあ。あんただけが頼りなんだから頑張ってよ。」
「そうそう。うちらがもし人気が落ちても松浦が頑張ってればさ。よし、何とかなるぞって思えるんだから。」
 
「あんただけがたより」
夏の悪魔が自分を襲う。もう一度眩暈がした。日中のロケが続きすぎた。体の下から赤い悪魔が襲ってきて次第に上に突き上げてくる。モーニング娘。はお歌の学校ですか。
亜弥はそのまま目の前を暗くした。灼熱の地表が体にぶつかった。
 
真昼間の3時すぎ、亜弥は仕事を終えた。熱射病になりかけてるから今日はマンションで休めと言われた。日ごろの疲労も蓄積していた。毎日のように美貴に振るわれるひどい暴力も原因かもしれない。
 
部屋に入ってクーラーをつけてやっと夏を追い払った。今年の夏は異様に不愉快だ。いつもの年だったらこんなことはなかった。一番てっぺんに上ってる太陽が大好きだったし暑さに負ける亜弥ではなかった。
何より亜弥は夏は大好きだった。
 
しばらく亜弥はソファで頭をうな垂れていた。部屋の温度は下がってもまだ体は重かった。そうしてうとうとと眠りかけていたらチャイムがなった。美貴はまだロケ中だからこないはずだ。頭だけは瞬時の計算をする。誰だろ。体をひきずりながらドアを開けた。
「ごっちん!」
亜弥は驚いた。
真希がドアの前で気まずそうな笑いをこちらに向けていた。
真希が家に来るなんて初めてだった。亜弥と真希はごまっとうを一緒に組んでから少しは話すようになっていた。でも真希はどちらかというと美貴と仲がよくて亜弥とはそんなでもなかったのだ。
「どうしたの?突然。」
「美貴から聞いたよ。今日、ロケ中に倒れたんだって?」
真希はベッドのそばにハンドバックをおろした。
「あー。うん。」
「気をつけないとね。寝てなくていいの?」
真希は言いながら部屋を動き回っている。まるで部屋に中にある家具の位置を一つ一つ確認するようだった。
「心配してきてくれたの?」
「そうそう。まっつーが倒れるなんてあんまりないじゃん。だから。」
そう言って真希は窓のブラインドを下ろし始めた。
「ありがと。そういえば飯田さんと矢口さんは元気そうだったよ。」
亜弥はベッドの上に座って言った。
「そう?」
乾いた声で真希は返した。
亜弥は昨日の美貴の言葉を思い出していた。この人がどんなことを夢見ているのか知りたい。どこまで上にのぼっていくつもりなのか無性に知りたかった。もしそれが分かるのなら自分は壊されても構わないと思った。
「ごっちんさ。覚えてる?ごまっとうの時の約束。」
「昔?あたしまっつーと約束なんかしてたっけ?」
「3人でだよ。あたしとごっちんはソロで娘。のメンバーを引っ張る。美貴はモーニング娘。に入って中から元気をみんなにあげて。みんなでモーニング娘。を盛り上げていってね。」
遠い線をを手繰り寄せてる。自分で思っているより記憶が彼方にあって亜弥はそんな気がした。
「まっつーって、純粋な子どもだよね。」
真希は急ににこやかに笑い始めた。それは本当にぞっとする笑顔に見えた。
「あたしさー。いいかげんやめようと思うんだ。歌歌うの。」
感情も抑揚も無く真希は言った。
いつからこの人はこんな話し方をするようになったんだろう。失望と懐疑。緊張で歯が震えた。
「事務所はお金のことしか考えてないし。もうアホらしくて。」
嫌な冷や汗が出てきた。美貴の時と違った恐怖。でも真希の方が何倍も恐ろしかった。
「そんなことよりさ。まっつーってさ。あたしのことが好きなの?」
真希は体をひねる。ゆっくりとベッドに這い上がってきた。
「何?突然。」
亜弥は驚いて顔を上げた。真希は美貴と同じ眼をしていた。目の前に黒豹が座っていた。
「美貴から聞いたんだけど、亜弥ちゃんがあたしの話しばっかりするって。」
「違います。」
亜弥からはっきりと言葉が出た。
「あたしは、ごっちんのラブマシーンがもう一度見たかっただけ。」
「は?そんなの過去の話しじゃん。だったら今のあたしだけ見てよ。」
真希が次第に亜弥に寄って行った。
「そういう意味じゃない。過去にすがってるのはごっちんの方じゃない?だからあたしに勝てないんだよ。」
亜弥は言ってから後悔した。自分はあまりに無防備で弱かった。
「そういう言い方がタカビーなんだよ。まっつーがどれだけ美貴を傷つけてるか分かる?かわいそうだよ。美貴が。」
真希は亜弥の細い首をつかむとベッドの壁にどんと押し付けた。後頭部から耳鳴りがした。
「聞かせてよ。もう一度。ごっちんの―」
亜弥の言葉は真希にかき消された。
「悪く思わないで。恨むなら美貴を恨んでよ。」
「何すん・・」
言いかけたところでみぞおちに激痛が走った。真希がひゃらひゃらと笑った。
真希は亜弥を羽交い絞めにしてやわらかい羽毛布団で包んだ。声が出せなかった。その言葉を出したくなかった。あたしはあなたとは違う。あたしは美貴とも今のモーニング娘。とも違う。同じじゃない。
「ウラギリモノ。」
それが言いたかった。何も見えない。束縛されて何一つ自由にならない。
真希は真っ暗な闇の淵に亜弥を引きずり込んだ。
「美貴に頼まれてるんだ。松浦亜弥を壊してくれって。でもそしたら美貴と同じ高さでものが見えるよ。」
 
眠りたい。ひたすら眠ってしまいたい。
 
巨像が倒れていく。
純白の花に囲まれて沈んで行った。
亜弥は巨像にしがみついていた。
そして気づいた。
白い花は一つ残らず枯れていたのだ。







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