この胸のざわめきを



宮本佳林は仕事が終わる度にショッピングセンターの通りを散策していた。レンガの歩道から上を見上げると街路樹にイルミネーションが綺麗に散りばめられていて、すでにクリスマスが近くなっていることを知らされた。

 ソロになってもう二年目。もうこんな季節かと佳林の脳裏には今年のクリスマスまでに行うM-lineのライブ予定が一瞬思い浮かんだが、同時に横浜アリーナで朋子の卒業ライブを行うJuice=Juiceの予定も頭から離れない。

 朋子はどんな心境でいるのだろう。佳林は朋子の頭の中を想像しようとしかけて、すぐに打ち消した。朋子と自分はかけ離れた存在だと佳林は思っていた。しっかりしていて、大人で冷静に自分もメンバーのことを見ている。そんな人が考えることを自分が想像するのは想像と言うより空想でしかないと思う。

 いや、こんなことでいちいち落ち込んでるから気持ち悪がられるんだ。そう思ったすぐ後に、また自己嫌悪に陥って自嘲的になる悪い癖がでたと一人笑った。そうしてその感情を心の奥にしまいこんだ。 



 佳林は朋子への思いを断ち切って卒業を決めた。本当は断ち切れるほど佳林が強いわけではない。ただ、もうこれ以上朋子の迷惑になるのが嫌だった。アイドルとして輝いている朋子を邪魔するわけにもいかなかった。朋子のことをあきらめてから、朋子との関係も落ち着いたし、お互いのインスタライブに顔を出しても変な気を使わせないようにもなれた。朋子に関しては全て上手く行っていると思っていた。でもその朋子が卒業を決めると途端に自分の心がざわついた。本当は朋子の体調の方を心配すべきなのに、またM-lineで一緒に歌えるかもしれないなどと勝手に頭が動いてしまっている。そして卒業によって再び自分と朋子の関係は同じになる。同じJuice=Juiceの卒業メンバーだということが、さらに佳林の心を揺り動かした。



こんな自分ではだめだ。自分はもっと成長していたはずだと頭から上を見やった。スパンコールのように光る街路樹の間を冷たい空気が流れて佳林の頭を冷やした。熱を帯びて混乱していた頭の中が、次第におさまってくる。以前はこんなふうにはいかなかった。佳林は体調を崩して休養してから自分を守るという大切なことを見つけた。



 佳林が最初に学んだことは自分の感情と上手く付き合うということが自分を守ることになるということだった。ナイフのような感情が自分に向かってきてもそれを上手く分類して整理しておくのだ。すると荒れ狂う感情たちは、自分の居場所が見つかるとまるで麻酔を打たれたようにしぼんで大人しくなってくれた。佳林の技は心の中で暴れ馬をいなす調教師みたいだった。

 Juice=Juiceにいたころは自分に突き刺さるような自己批判の感情を出しっぱなしだった。それが佳林の心も体も縦横無尽に傷つけた。今みたいにきちんと自分の感情をしまっておくことができなかったのだ。そのせいで自分だけでなく周りの人にも迷惑をかけたし、傷つけた。それはサブリーダーだった朋子も同じだった。



 何かを決めるということはとても難しいことだ。今の佳林にはそれが染みるほどよく分かっている。自分のライブの出来不出来を決めるのはこの自分自身だ。自分のために頑張ってくれているスタッフさんやファンのみんなを生かすも殺すも自分次第なのだ。でも自分を責めて逃げてはいけない。あの頃の朋子もきっと同じ心境だったのだと思う。

 2015年の5月に佳林たちはLIVE MISSION 220の開催を宣言した。予備公演を含めて1年半で225公演ものライブを行うと宣言したのだ。その決断に一番慎重だったのが朋子だった。ハロプロの優等生で一番頭が良くて何でも出来る朋子が後ろ向きなことを佳林は理解が出来なかった。ただ、毎週のようにライブしてファンと交流して楽しいだけじゃんと思っていた。それに朋子に引っ張られて慎重になっている由加もスタッフさんのこともよく分からなかった。

 私達が頑張ればいいだけじゃん。



佳林はずっとそう思っていた。その頃やっと朋子が佳林に対して敬語を使うのをやめてくれて少しだけ距離が縮まったと思っていた。あるとき、ライブの終演後に佳林は力を使い果たして楽屋でぶっ倒れた。起き上がろうとしてもその力さえなかった。佳林は目の前のことに集中しすぎて自分の限界がどこまであるかも分からなくなってしまう。視界には目眩を起こしたように部屋の明かりがくるくると回転していた。また人に迷惑をかけてしまう。ライブの高揚感なんて吹き飛んでしまって、メンバーの誰一人顔を見ることさえできなくなった。孤独と絶望に包まれようとしたときに佳林を体ごと抱き起こしてくれたのが朋子だった。

「ちゃんと言ってよね。つらいときには」

まるで日常会話みたいに当たり前にそう言ってくれる朋子の言葉に佳林は何度も救われた。もう自分は倒れるまで頑張っていいみたいにまた思ってしまう。

「大事にしなきゃ駄目だよ」

朋子は何度も自分を大事にしてと佳林に言った。でも当時の佳林は言っている意味がよく理解できなかった。確かに他人は大事にしないといけないと思う。でも自分自身なんてそんなに意識するものじゃないと思っていた。生きていれば自動的にお腹が空いたり眠くなったりする。自分に気なんて使わなくていいし、自分がやらなきゃいけないことをやればいい。そして出来なかったら自分自身をひどく責めた。

「朋子は何を怖がってるの?」

朋子は佳林が頑張れば頑張るだけ不安そうな複雑な表情をした。

「朋子らしくないよ。せっかくもらったチャンスを活かそうとしないなんて」

佳林はライブミッションに躊躇していた朋子にそう言った。

「私達も自分たちでどこまでできて、どこまで出来ないかきちんと考えたほうがいいと思う」

朋子はメンバー同士のミーティングでいつもそう言った。でも佳林はハロプロでも一番新しいグループだった自分たちに、そんなことを考えている余裕なんてないと思っていた。

「とも、怖がらずにやるべきだよ」

佳林はそう強く主張した。そのたびに朋子が複雑な表情をして、いつも勝ち気そうな朋子の眉が少し下がっているのを佳林は今でも覚えていた。朋子はきっと佳林やみんなのことを心配して、冷静に自分たちが出来る最大限を考えてくれていたんだ。そしてそれが自分たちが一番輝ける方法だったのだと佳林は今更ながら気づいた。そう思うと朋子に対する未練とざわめきと共に、今でも佳林の胸が痛む。

 佳林はそのことを朋子にずっと謝らなきゃいけないと思っていた。でも口に出してしまえばとても軽い言葉になりそうで怖かった。朋子も過去のことだときっと笑って終わってしまう。でも佳林には朋子への嫉妬と憧れやもっともっと強い思いなど複雑な感情を朋子へぶつけてしまったのだ。つくづく自分は重い女だと佳林は思う。この胸のざわつきは佳林が朋子に対して抱き続けている胸の痛みと常に同居していた。



 卒業ライブが終わって数日がたってから、金澤朋子はまだ朝の陽光が残る街なかで一人、スタバの窓際の席に座って本を読んでいた。Juice=Juiceとしてデビューしてからはこんなに早い時間帯で、こんなに自由な時間があるなんてほとんどなかった。計画性があってのんびり屋の朋子はこれからはこんなまったりした過ごす時間が増えていくのだろうと改めて卒業したことを実感した。最高に楽しかった卒業ライブを思い出すと卒業したことにもう悔いはないと思う。でも心に少しだけわだかまりのようなものがあって、それは佳林はどんな気持ちで卒業したのだろうということだった。

 佳林はいくつになっても少年のようなあどけなさとアイドルとして完璧な美少女然とした雰囲気と適当にあしらいたくなる腐男子のような面倒臭さを合わせもっている。多分そんなアイドルなんてどこにもいないから朋子を含めてたくさんのファンに愛されているのだろう。頑張りすぎたせいで体を壊してしまって、めちゃくちゃ悩んで苦しんでいるのに誰にも助けを求めない。他人には自虐的になるばかりで、自分がどんなにつらくても全然周囲を巻き込まないで、ものすごく軽やかに接してくる。だから簡単に掴めそうで全然捕まえることができない。結局佳林はサブリーダーの朋子にさえ佳林の悩みや苦しみを一つも分けてくれたことはなかった。たまには、何か一つでも自分を頼ってほしかった。そんな思いを佳林に対して抱き続けていた。佳林が卒業を決めたときもまた先を越されてしまったと思った。置いて行かないでよ。素直にそう言いたかったけど、そんなことを言えるキャラでも柄でもない。ただ年上のお姉さんとしてできるだけ優しく見送ることしか出来なかった。

 昨日、Juice=Juiceじゃなくなってから初めて佳林と何回かメッセージのやり取りをした。卒業前は佳林にはありきたりな返信しかできなかったからだった。改めて「朋子、卒業おめでとう」と言われて、いつか会いたいねという話をした。「いつか」という言葉が意外にもよそよそしかったのかと朋子は後になっていろいろと考え込んでしまう。

 こういうのをプライドというのか。佳林に対しては、急に近づきすぎて怖がられてしまうのを恐れる気持ちが先に立った。手の届かないアイドルだったら、遠慮なんかせずにありとあらゆるオタク活動にいそしんで佳林を見つめているかもしれない。でも宮本佳林は手を伸ばせば届いてしまう距離にあったせいで、朋子は佳林に近づきすぎることに対して尻込みしていた。

「これからは自分のために仕事して、生きていいんだからね」

ステージで由加が言った言葉をふいに思い出した。その時は涙で濡れて由加にも感謝の感情しか浮かばなかったけど、それは暗に佳林のことを言われているような気もしていた。「いつか会いたいね」は「今会いたいね」だ。正直になりなさいとでも自分に呼びかけるようにつぶやいてみた。

 午前中ということもあって通りを歩く人はまばらで店内も閑散としていた。人が希薄だと店内に飾られている植物の絵が異様に大きく存在感を持って感じられた。丸みを帯びた赤い実と無数に生えている尖った葉っぱとくねくねとしたうごめくような根っこは、小説に出てきたヴォイニッチ手稿の植物のような奇怪さで生き生きとしていた。



 あまりにも香ばしい匂いに引きづられて、朋子は待ち合わせ場所だったドラッグストアを出て隣の人形焼のお店にいた。 

「ともこ」

 佳林が朋子をみつけてこちらに向かってかけてくる。朋子は勝手に待ち合わせ場所から移動したことを謝ると、佳林は全く気にせずに駅を出たらすぐに朋子が見えたからとはしゃいだ。雑踏の中でも佳林の姿は際立って輝いて見えた。久しぶりに会った佳林は、美術品のような美しさを湛えていて、朋子は目に毒だと思った。

 「ネイル変えたんだ」

 佳林が朋子の手を見て珍しそうに言った。

 「冬ネイルにしたんだ」

 朋子は薄いブルーと氷の結晶をあしらった爪を広げた。卒業公演のときの赤のネイルも気に入っていたが、今回のが特にいいと思っているのは、白の結晶や散りばめられたような模様がはいることで、冬仕様のクールな色も指をそろえると優しい色に調和して見えることだ。朋子は珍しくはしゃいだように佳林に見せる。

 「ま、知ってたけどね」

 佳林は口を尖らせて悪戯っぽく笑った。こんなわずかに変化する佳林の表情を見ているだけで朋子はドキッとする。

 「佳林ちゃんのネイルも綺麗だね」

 朋子は、薄いピンクの佳林の爪を見て手を触れようとしたが寸前のところで遠慮した。佳林は以前と同じようにファンの前でお仕事もできている。今日もこうやって明るく会いに来てくれた。それだけで満足すべきなのかもしれない。

 「佳林ちゃん、元気そうで良かった」

 朋子はぽつりとそう言った。

 「別に私はいつも元気だよ。たまにお腹壊したりしてるけどね。それよりともこは元気にしてる?体の調子は?」

 今度は笑っていなかった。

 「私は笑顔で過ごしてるよ」

 朋子は佳林の前でにっと笑ってみせる。

 「そう。ならいいんだけど」

 すました顔で言う佳林を見て、大人になったなと思う。もう23歳になったのだから当たり前なんだけど、ハイテンションではしゃいでいたり少年漫画に夢中になっているのを見ていると佳林がいったい何歳なのか本当に分からなくなる。

 「ずっと気になってた。朋子の体調も、あと佳林がいっぱい迷惑かけちゃったから」

 「迷惑?何の話?」

 朋子がきょとんとした顔で言った。最近、佳林と仕事で関わったことはないしインスタライブでコメントもらったぐらいで謝られる理由が思い当たらない。

 「昔のことなんだけど」

 佳林はそう言って朋子から視線をずらした。

 「juiceのときのこと。朋子にいっぱい迷惑かけたなって。最近になって改めて思ったんだ。私、すごく重たかったでしょ。ごめんね」

 佳林は泣き笑いのような表情をしていた。 

 「そうかな。佳林ちゃんが重かったことなんて一度もないけど」

 遠慮しないし気を使って言ったのでもない。朋子は佳林に対する正直な気持ちを言った。

 「LIVE MISSION 220のときも一人暴走してて。思い出したら恥ずかしくなって」

 佳林が顔を赤くしてうつむきながら言うのが本当に可愛かった。

 「懐かしいな」

 LIVE MISSIONで全国をライブしたのはもう6年も前だ。ものすごく大変だったけどやって良かったと心から思えたライブだった。朋子はそのときに、正確にはライブミッションをやることを決めたときに、初めて本当の宮本佳林に出会えたような気がしていた。



 佳林が行きたいと言っていたフルーツサンドのお店に着いた。店内はすでに混んでいて若い女の子たちの話し声でいっぱいになっている。朋子達は空いている最後の1席に滑り込んだ。

 「人形焼じゃなくて良かったの?」

 佳林は、まだ待ち合わせの場所を勝手に移動して人形焼のお店にいたことを茶化してくる。

 「あれは、すごいいい匂いがしたから」

 「いいんだよ。朋子が好きならその道を進んでも」

 笑いながら佳林は朋子は腕を軽くつついた。朋子はそのとき佳林に背中を押されたような気がした。きっとライブミッションのときも同じようなことがあった。朋子はそのときのことを今だから素直に佳林に話せるような気がしたし、話さなければならないと思った。多分それは、未だに佳林が感じてる「誤解」にも直結しているように思ったからだった。



「 1年間で100公演。2年で武道館」

6年前。由加と二人でマネージャーさん達から提案された目標を聞いた。一番最初はライブミッション220なんてまだ形になってなくて、ただなるべく多くライブをこなして、2、3年のうちに武道館でライブをやるという漫然とした目標があっただけだった。当時はJuice=Juiceとして何か大きな決定ごとがあるとき大人達はまず、年長組の由加と朋子に相談して決める仕組みになっていた。それだけにリーダーとサブリーダーの責任は大きい。そのとき朋子は体力的に出来るのかという気持ちと、本当にこれで良いのかという思いが混在し、複雑な気分だった。 

「2年後の武道館か」

朋子は2年後のJuice=Juiceや自分を想像できなかった。

「ワンマンライブを一つ一つ、積み重ねて武道館を目指すというのは大切だよね。スケジュールやどんな形でやるのかしっかり決めてみんなに言おう」

由加は朋子の戸惑いを察知してか安心させるようにそう言ってくれた。朋子は何かと先のこと先のことを考えすぎてしまう。

Juice=Juiceは無数のアイドル達が乱立する真っ只中に結成されている。レコード大賞をとったり、ライブを続けてそれなりに順調にいっている気もしたけど、それだけではいけない気持ちが大きかった。

 2年後。一瞬の煌めきが全ての自分たちにそんな何年の時間もあると考えてもいいのだろうかと思う。出来たら武道館ライブは来年。そんなだいそれたことも朋子は思ってしまっていた。

「メンバーの子達なんていうかな」

朋子がそう言いながら一番最初に脳裏に浮かんだのは佳林がマイクに向かって歌う姿だった。佳林は朋子にとって事務所の先輩で、当時から研修生の中でも羨望の眼差しで見られている存在だった。実際、そのアイドルに対するストイックな姿勢と完璧にやり遂げようとする精神力は年下には思えない。学校の部活みたいに馴れ馴れしくは話せない雰囲気をもっていた。でもデビューしてすぐに骨折してみんなに迷惑をかけると泣きそうになりながら謝ってきたり、ライブで立ち位置を間違えてまた大げさに謝罪してくる。支えて上げたいと思うのもおこがましいと思いながらも、宮本佳林の不思議な魅力に取り憑かれ始めていた。

「そんなに心配いらないよ」

 朋子の表情が硬かったせいか由加は明るくそう言ってくれた。由加の励ましに支えられるように、朋子は楽屋でこれからのJuice=Juiceの目標と2年後に武道館を目指すことをメンバーみんなに伝えた。年間100公演はモーニング娘。さんや他の先輩方も達成しているから自分たちも達成していきたいと、ぎこちなくも述べていく。ただ言っている自分ができるのかという不安とそれでいいのかという思いがまだ交錯している。一瞬の沈黙。

 そのとき佳林が一人まっすぐに手をあげた。

 「はい。やります」

 佳林が目を輝かせてそう言った。

 「みんなでライブできたら絶対楽しい。みんな、よろしくお願いしますっ」

 そう言ってはにかみながらメンバーに頭を下げた。佳林の言い方はまるで今から遊園地にでも行くような楽しさだった。呆気にとられているさゆきやあかりを見て朋子は思わずサブリーダーとして何かを言わなければと思った。

 「ま、まあスケジュールやどんな形でやるかはみんなの体力も考えてやっていくから」

 朋子はまごつきながらそう言った。朋子の脳裏に佳林が怪我をしたり、ライブ後にきつそうにしていることを何度も見た上での発言だった。

 「平気。頑張ればいいだけだから」

 佳林はただそれだけ言った。何の秘策も作戦もないらしい。

  

 そう。頑張ればいいだけだ。



 この子の純真で濁りのない気持ちはいったいどこから湧いてくるのだろう。朋子は単純に佳林のようになりたいと思った。自分たちが歌える場所さえあればそれは幸せなことなんだ。だったらチャンスがあるならもっとがむしゃらにやればいい。佳林はそう言っている気がした。そして自分も佳林のようにもっと一途に努力していきたい。そうすれば少しでも佳林に近づくことができるかもしれないと思った。

「2年後、ちょっと遅くないかな」

佳林の影響もあったかもしれない。後になって朋子が由加に自分の気持ちを吐露した時、さすがの由加も驚いた顔をした。

 「2年で200公演が武道館の条件なら1年で200やれば来年に間に合う?」

 「私もそれは思った。でも今年は演劇やドラマの話もあるみたいなの」

 由加は否定はしなかったが、微妙な表情だった。

 「やっぱり難しいかな」

 朋子はみんなに聞いて無理ならそれでもいいと思った。でもできるかもしれないことは最初からあきらめたくなかった。由加と相談した結果、本当にそんなライブのスケジュールが組めるのかというのをマネージャーさんに相談して、最後にみんなの意見を聞いて決めようということになった。

 マネージャーさんに提案と相談をしていく中で、もしかして自分だけが暴走しているかもしれないと朋子は思った。何で自分一人だけこんなに焦ってるのだろう。自分がしていることは、佳林に近づくのではなくて、ただみんなを置いてけぼりにしているだけなのかもしれない。

 佳林がごく自然に、何の計算もなく純粋なアイドルをやれているのに自分ときたら独りよがりになるばかりだ。佳林みたいになりたくて、自分のやってみたいことをやり始めたのに、こんな気持ちでは佳林からどんどん遠ざかっているようにしか思えなくて、朋子は気が滅入った。みんなに話して難しいということになったら一人で勝手に進めたことを素直に謝ろうと朋子は思った。

結成から2年たった2015年にマネージャーさんやメンバーたちと改めてこれからのJuice=Juiceについて話し合った。

マネージャーから提案されたのが「LIVE MISSION 220」 今年からライブを220本達成して、来年の10月に武道館ライブを行うというものだ。

 「私は出来たら来年、武道館ライブを目指したい。それでマネージャーさんに相談して本当に日程が組めるか相談してたんだ」

 メンバーのみんながどんな表情してるか見たくなくて、朋子は宙を見るように言った。マネージャーさんが週明けの平日と週末が全てライブという鬼のようなスケジュールを伝えた後だったので、言い出すのはとても勇気がいった。次第に空気が張り詰めていって、額と背中に嫌な汗を感じた。もうこんな思いをするんだったら、早く誰かに全否定して欲しかった。たまらずに由加を見ようとした。そのときに別の方角からガンと席を立つ音がした。

「よっしゃ。やろう」

佳林が突然立ち上がった。張り詰めた空気なんてなかったように、佳林は満面の笑みを浮かべた。

「毎日ライブなんて絶対楽しいじゃん。やったね。もう来年は武道館」

佳林はまるで「はい決まり」というようにぱぱんと手をたたいた。まだ何も達成できてないのにまるで佳林は誰かを見返してやったように威風堂々と胸を張った。朋子はそのとき自分の胸がさっとすいていくような気がした。



 さゆきは、佳林の言葉に押されたように賛成してくれて、あかりはすでに由加から大体の話は聞いていたらしく、体力をつけるため筋トレしないとみたいな話をしている。朋子を覆い尽くした重苦しい霧のようなものは、佳林の最初の一言に触れた瞬間吹き飛んでいた。見返されたのはくよくよ悩んでいた朋子自身の心だったのだと今でも思う。



朋子が語り終えた時、佳林は嬉しいような恥ずかしいようなまだ自分でも判断がつかない表情をしていた。

「気づかなかった。そんな風に思ってくれてたなんて」

佳林の言葉はまだ半信半疑のようで、心もまだ過去と現在を往復しているみたいだった。

朋子はずっと佳林が過去の自分を語る時、それは朋子の中にある佳林とは全く違う気がしていた。今、それがやっとぶつかり合っているように感じた。佳林に本当の宮本佳林のことをずっと伝えたいと思っていた。でもそれは自分の核心部分に触れるようでJuice=Juiceにいた頃はどうしても佳林に言えなかった。

「メンバーのことも、朋子のことも何も考えられてなかった」

佳林が過去の自分をそんなふうに言う度に朋子は忸怩たる思いにかられる。そんなふうに自分のことを言う佳林に何も言えなかった自分が悔しくて堪らない。

「でも今なら言える気がする」

心でつぶやいたはずの言葉が思わず口に出てしまって、佳林は不思議そうに朋子を見つめていた。店内の喧騒はいっそう激しくなったが、朋子はあまり気にならなかった。目の前にいる佳林を見つめて佳林に言えればそれでいい。

「あのときかな」

朋子は言った。

「私が本格的に佳林ちゃんを好きになったの」

佳林がどんな表情をしてもどんなふうに思われてもいい。そう思ったら朋子は自然と笑みを浮かべていた。鏡を見ているようにそれがそのまま佳林の表情にも伝わった。

ざわめいていた胸の高鳴りが一瞬大きくなった後、すとんと落ちたような気がした。



 気がつくと、店内にジングル・ベルの曲が聞こえてくる。高窓から入ってくる正午の日光に照らされてクリスマスの飾りが軽やかに揺れていた。



<完結>



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