ダイアモンドリリー



私は歩きながらゆっくりと花束を持ち上げた。ラミネートフィルムにくるまれたユリは、息を吹き返したかのように私を見た。ずっと下をむけていたせいか花びらの先が充血したように青みがまさっている。それを見た私は再びユリをまっすぐに地面へ向けた。

 

玄関先でユリを受け取ると真希は、花瓶をとりにいくためかすぐに奥へ戻った。切花のユリは、まだ勢いよく花びらを尖らせ、光沢のある表面は艶かしく光っていた。このユリは、花に詳しい私でも見たことがない。蓄音機のホーンような形の花はどことなく鉄砲ユリに似ているが、根元から先端にむけて血管のように青く鮮明な筋が何本も通っている。それは自然が作り上げた模様というよりは、壷や花瓶に刻印してあるような人工的な線だった。それでいて、ユリ独特のカサブランカのような華々しさもヤマユリのような奥ゆかしさも感じられない。どことなく安っぽく、強いて言うなら造花のようなユリだった。  

真希は、水の入ったガラスの花瓶を差し出し、私はくるんでいた紙をほどいてユリを挿した。一本一本がさっとうまい具合に花瓶に広がった。ユリがやっと私の手を離れて、私はため息にも安堵にもとれるほっとした気分になった。ここへきてから私は真希の顔色をずっと伺っていたが、私が訪ねてきたことへの反応も驚きも特に感じられない。  

このユリを亜弥から預かったのは昨日のことだった。それで初めて真希が事務所をやめようとしていることを聞かされた。あまり驚かなかった。知っていたのでも前々から感づいていたわけでもない。あまりにも真希と疎遠になっていたせいで、そういうこともありえるなと無意識に納得してしまったのだ。そのときは、さらに真希が離れていくのだなとそれだけを思った。だからひきとめないといけないと気づいたのは亜弥がそう言ってくれたからだった。真希と仲がよかった数年前だったらこんなことはなかっただろう。私は真希との距離の遠さに改めて気づかされた。  

そして亜弥は真希に渡してと唐突にこのユリを私の前に出した。亜弥は話の前後の文脈を抜かすことがよくある。このユリはどういう経緯で真希に渡したいのか。番組でたまたまもらったものなのかそれとも自分で用意していたのか。でも亜弥はユリを私にあずけるとそれについては何も言わずに、さっさと私の前から去っていってしまった。このユリはまるで結婚式のブーケのように何の法則もなく意味もなく私の前に投げ出されてきたようだった。  

ユリの花瓶をもったまま真希は、無言で私にむかって手招きをした。真希がドアをあけた。リビングに入ると甘い芳香が私を包んだ。茶色いレザーシートのソファが陽光で真っ白く見えた。日差しがあまりにも強烈で、私は日の光が匂いまでも運んできているかと錯覚した。が、よく見れば窓辺には真赤なカトレアが置いてあって中世の貴婦人を思わせる優雅なドレスのような花弁が髪油に似た強い香気を立ち上らせていたのだ。特にカトレアだけが目についたのはその両脇にヒヤシンス、フリージア、水仙、いずれも白花を咲かせた球根植物が所狭しと並べられ、カトレアの赤と白の絶妙な対比を形成していたからだ。しかし、それらの植物も小さな植木鉢の中で窮屈そうに、限られた空間の中で己の巨体をねじらせて有り余るエネルギーを花へ向かわせているようだった。  

窓からはきれいに手入れされた庭が見えた。私の背丈ぐらいの木々が規則正しく整然と庭の周囲を囲んでいた。庭の中は、花畑になっていて手前に薄紫色のコスモス、その奥に切花用だろうか人の背丈の半分くらいのピンクや黄色のキクが植えてある。その横にはコスモスよりもっと濃い紫の花、多分エキナセアだろう。先端に花びらを反り返らせた見事な花をつけて茎がゆらめいていた。  

美しい庭。確かにそうかもしれない。しかし私はこの庭に違和感を感じた。この庭も植物も、どこかおかしい。ここはあまりに整備されすぎていて、ほうっておけば混沌とするはずの自然の法則がないかのようだ。庭のところどころに耕して盛った土はどれも同じこげ茶色をして、完璧に整頓されていた。植物が植えられている合間に雑草一つない。この庭は自然というよりも人工的な美術品のような美しさを備えていた。  

真希は何を思ってずっと家で庭仕事をしているのだろうかと私は思った。私は満足そうに庭を見ている真希を見つめた。真希の瞳に花や木々が反射して見える。もっとよく見ようとしても真希の瞳に呑まれるばかりで、本当に真希は何を見ているのか私には皆目分からない。  

真希に了解をもらって私は庭へでた。近くで見るとその庭の美しさは際立った。花壇には植えられている植物以外、芽を出すものの存在は一切許されていない。私の家の庭でも一週間もほっておけばたちまち雑草の天国になる。もともと野ざらしの庭には雑草の種が大量に含まれているのだ。その種も一度には発芽しない。少しずつ時期をずらして時限爆弾のように次々と芽吹いてくる。だから雑草の繁茂は抜いても抜いても仕方がない。ところがこの庭の植物達は、何かしらこの庭だけがもつ全的な何かにしたがっているようだった。自然に反した規範のようなものに従順であろうとしているように感じた。  

「これは」

空気が細い管を通って振動しているようなか細い微妙な声だった。真希が卵をもっと長細くしたような落ち葉形の黄緑の葉を指差していた。最初私はそれが真希が何を言おうとしているのか分からなかったが、やがて意を解した。  

「瑠璃萵苣、別名をボリジとも言うけど」  

「あたり」  

真希は息をつくようにして言った。瑠璃萵苣の葉は人間の肌に似ている。やわらかそうな葉肉に薄い毛が生えている。生育が早くあっというまにひざぐらいまで茎をのばしてくる。もう一ヶ月もしたら毛羽立った瑠璃色の花をいくつも咲かせるだろう。  

「じゃあこれは」  

「ルピナス」  

「これは」  

「トードフラックス」  

「これは」   

「ミント」  

花の名前当ては永久に続いていきそうだった。  

「これは」  

「ローズマリー」  

ぶっきらぼうな真希の聞き方は、私を試しているというよりは二人で何かの呪文を唱えあっているようだ。私達の閉ざされたやりとりは、低木に囲まれた庭の中で静謐に木霊していた。  

「これは」  

「カモミール」

 何回繰り返しただろうか。真希はただひたすらに花を指し示すだけだった。私は花の名前以外の言葉を発していなかった。私は次第に我慢ならなくなった。  

「これは」  

「ベンジャミン」  

「これは」  

「ねえ、真希」  

昔の呼び方だった。梨華と真希、昔の私達は下の名前だけで呼び合っていたと思う。その頃にもどったつもりで、私は、真希が事務所をやめようとしていることを聞こうとした。私は低い口調で理由を質したのだ。ひきとめてもそれは無駄なことなのかもしれない。第一反対する理由がない。そして今の私はそれほど真希と親しいわけでもなかった。私の言葉は昔の親友としての半ば義務的なものであったかもしれない。それでも私は、ここへ来た以上真希を問いただすことによって私の存在を認めてもらいたかった。そうでなければなぜいまさら真希の家にやってきたのかという疑問を私自身、自己解決することができない。私は真希の返答を心待ちに待った。それはどんな言葉であったにしても私に向けられた言葉に違いないと思った。   

「これは」

 同じ言葉を真希は繰り返した。

 私は思わず真希の顔を見た。無表情だった。周りの空気が一瞬リセットされたような不思議な気分になった。エキナセアが、キクがゆらめき、紫だの赤だの黄色が土の色に混じって霞んだ。真希は花壇から外れた庭の横の側溝を指差していた。それでもそこには何かがいた。 そこはコンクリートで固められいてわずかにあいた溝の間からごく細い葉っぱを密生させた奇妙な植物が突っ立っていた。全身は黄緑色をしていて葉も茎も同じ色をしていた。大きさは、背丈の半分くらいだろうか。一瞬大麻にも見えたがそうでないことはすぐに分かった。種が飛んできて生えたのだろうから雑草の類だろうが、どこにでもあるような植物に見える一方で見たこともない植物にも見える。見当がつきそうでよくわからない。秋に大繁茂するセイタカアワダチソウのように見えるが葉っぱが細すぎて少し違った。

 「おもしろいね」

 真希が言った。何のことか意味はまったく分からなかったが、それが唯一私へ向けられた言葉だったかもしれない。  

「この花は梨華がもってきたんだよ」  

真希に言われたその瞬間にあの蓄音機のホーンのような花がピンときた。あのユリがこれだったのかと私はもういちど溝から生えた植物を見た。これには花がついておらず、細い葉っぱだけではこれがあのユリだとは気づかなかったのだ。そしてなにより高貴なはずのユリがこんなところへ生えるなんて思いもよらなかった。  

「ただし梨華は二番目。最初にこの花は美貴がもってきたんだ」 それから真希が何かにとりつかれたように語り始めた。絞り出すような抑揚のない喋り方、それでいて女子高生のように黄色く、それでいて低い声。大よそ歌手とは思えない。真希の声は言葉では表現に難いきしむような空気の震えだった。  

真希は、美貴が少し前に亜弥からもらったという珍しいユリがあるとここへもってきた話をした。藤本美貴も少し前に真希と同じように突然事務所をやめてしまっていた。私は美貴ともあまり親しくなかったので理由についてはよく知らない。  

当初、ユリは手間をかけることなく育ち見事な花をいくつもつけていた。普通の鉄砲ユリとは少し異なり、発芽したユリはすぐに花をつけた。種はまかなくても咲いた花から自然にこぼれた。花壇のあちこちに植えもしないユリが見えるようになった。次第にユリは人の手を借りることなく繁茂し始めた。ユリの増殖はすさまじく、発芽して一月で腰の高さになり、二ヶ月で花が咲いた。花からこぼれたユリの芽は無数になり、抜いても抜いてもきりがない。ついにユリは他の植物をも侵し始めた。ユリがそばに生えるとまず植物の葉の先端部分から枯れ始め、萎れていく。植物は次第に土色にかわり、やがて地面に吸収されるようになくなっていく。まさしく庭全体がユリに占拠され始めた。  

ついに真希は抱えるほどもある一斗缶に油を入れてユリに向かって振りかけた。ユリは勢いよく燃えた。青々と枝葉をくねらせた無敵のユリが、火の力によって屈していった。庭にはこげ茶色の土だけが残った。真希はその上に花壇を作った。次第に私は周りの植物も何か私も見知らぬ得たいの知れない植物に化身していくように思われた。まるで私には居場所がなく、私の世界は私の目の前で閉ざされていくのだ。  

「このユリは私じゃなくて梨華に渡されたものだったんだよ」  

いつの間にか真希は、花瓶にさしたはずの私がもってきたユリをもってきていた。真希はおもむろに側溝に生えたユリのそばにおくと躊躇なく一斗缶に入った灯油をふりかけた。ライターの音とともに火がついた。花の癖によく燃えた。煙はあたりに立ち込め、吸うと薄い香の匂いがした。  



私は今でも頭の中に思い浮かぶ。真希の家を出た後で振り返ると、無数のユリが花をそちこちに向けて咲いている。花の中心には血走った朱色のめしべが口のなかのべろのように突き出ている。それはまるで動物が大きな口をあけてうごめいているようだ。それはただの幻覚なのかもしれない。 そしてそれ以上に私に与えられた現実は悲惨だった。  

私は歌を歌えなくなっていた。ユリを燃やした煙を吸い込んだ者は喉をやられてもう歌えなくなる。言葉を発することさえ億劫になった。その症状に気づいたのは真希の家に行ってから数日後のコンサートの前日だった。でも私は思うのだ。できることならそのユリをずっと広い原っぱに一面に咲かせて一斉にそれが燃える煙をもう一度吸ってみたいと。



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