聖ベツレヘムの情事





Betrehem romance

松浦亜弥が初めて藤本美貴を見たとき、これは運命だと思った。

礼拝堂のほうから吹き込んできた風が、校舎にいる亜弥の目の前を通り過ぎて、隣の美貴の肩にかかったブラウンの後ろ髪を優しく撫でるように揺らしていった。亜弥は一瞬、美貴の後ろ髪を見たまま静止した。 風になりたいと思った。

心臓のあたりがかさかさと音をたてている。胸のざわめきは、今美貴の髪を犯した風のせいでむき出しになっている心をくすぐられているようだ。

ミッション系のベツレヘム女学院に亜弥が入学を決めたのにはある理由があった。亜弥は物心がついたときから一つの情景がずっと心の中にこびりついている。聖書の一場面をかたどったような情景ともいうべきそれは、これまで丹念に亜弥の頭の中で思い返された。亜弥は幾度ともなく復習されたその情景を折り紙を開くようにゆっくりと再生を始めた。運命と運命とがであったとき、神はこんな祝福をするに違いない。

まだあけきらない薄明かりがさす朝、町から遠く離れたゆるやかな丘の上に青い目をした一人の聖者が立っている。ふもとから村人が三々五々集まってきている。村人達はぼろの布をまとっており、身体は痩せ細り青白い栄養失調の肌を覗かせて、一見しただけで貧しい農民であることが見て取れた。聖者も村人達と同じような貧者の姿に身を窶していたが、髪は中世の貴婦人のようなブロンドが波うち、それが朝日に洗われて清らかな光りを放っている。聖者の沈鬱でやや緊張した視線は定まらず中空を泳いでいるようでもあり、またずっと彼方を見すえているようでもあった。

その日は村の結婚式であった。聖者は微笑をもって人々を優しく迎えいれた。そしてそばにあった石がめの微温湯をたちどころに葡萄酒にかえて皆に分け与えた。また人々がめいめい持ち寄ったからっぽの皿を魚や肉でいっぱいにして、飢えた人々の空腹を癒した。全ての儀式が終了したとき、聖者は自分の右腕を高らかにかかげた。その先のクリスタルの器には満々と透明な水が漲っている。太陽を背にしてその聖なる水を通過した光線(ひすじ)は、次第に人々の座っている丘全体に広がった。やがて光によって映し出されたのは斜面に映る巨大な天使の姿であった。そのとき村人は、この聖者が伝説の救世主であることを、唯一人のキリストに出会えたことを知った。

亜弥はその情景を音として聞いていた。胸の鼓動として、あるいは美貴の髪を揺らした優しい風の音として、そして校舎を出た二人の上には一面こよなく澄み切った、波一つない湖面を思わせるような空がその音を見下ろしているかと思われた。

 亜弥と美貴は校舎から外へ出た。美貴は急に早歩きになって亜弥よりも前を行った。あたりには二人以外誰もいない。亜弥は先ほどの風が再び美貴の髪を独占するのではないかとそれだけが心配された。美貴は時折亜弥を振り返りながら美しく整えられた赤と黒のチェックのスカートを子供のようにわざと乱した。そのせいで美貴の足が付け根に近い部分までちらちらと瞥見された。それは琥珀色のいかにも健康そうな弾力性のある生動であった。ふと視線を戻すと道の両側には古い白樺の木が立ち並んでいて、老樹の淡白な幹にスカートの濃色の柄が入り混じって枯木林の中で巨大な蝶が踊っているように見えた。

「亜弥、行くでしょ。礼拝堂」

二人が礼拝堂に行くことは口に出さなくても、いわばいつもの規定路線であった。それでもあたかも計画されていたような美貴の確信に満ちた声を聞くと亜弥は心を融けている心地になった。美貴から発せられる声は心に出来たどんな醜悪な塊も見上げるほどの悪辣な巨魁をも瞬殺していくようだ。むしろ溶かす対象が大きければ大きいほどそれを乗り越えたときの快楽が大きくなる。だから亜弥はわざと憂鬱な気分に自分においた。お互いが交わす喜びは、二人が出会う瞬間ごとに急速に増殖を繰り返していった。

礼拝堂は学校の校舎に四方を囲まれた中庭にあった。庭自体は同じ高さに刈りそろえられた淡緑の芝生が敷き詰められ、周囲には、人型や動物を模したブロンズ像が配置されている。落ち着いた趣のインド式庭園であった。庭園の入り口から礼拝堂までは光沢のある花崗岩から造られた滑らかな石畳が連なっている。しかしその先にあるのはヨーロッパにある豪奢な大聖堂を小型化したような大げさな造りの建物であった。中央に位置する円錐型の塔には、無数の天使や白馬の彫像がちりばめられ、アーチ型にくりぬいたくぼみには真鍮製の鐘が埋め込まれている。塔の先端には十字架を配してあり、全体的には西洋のゴシック様式を思わせる壮麗な概観を呈している。

静かな庭園の中のこの建造物は、緑を敷布にした宝石のようであったが、その存在感があまりにも大きすぎた。礼拝堂の放つ荘厳な雰囲気がかえって宗教的に偏ったなイメージを強めている。おかげで信仰という名の排他的精神の異常さが遍満して、高校と言う教育の現場に著しくふさわしくないものにさえ思えた。この建物はいわば鬱勃とした木々が立ち並ぶ大自然の中に突然置かれた人工的なまばゆい光輝を放つ宝石のようであり、敢えて言うならきわめて不自然な異物であった。それでも礼拝堂は、臆することも遠慮もなくただひたすらに屹立しているのだった。

礼拝堂の扉の内は、まだ朝の朝礼のときのままになっていた。壇上の中心には銀色の杖をもった沈鬱な表情のキリストの像、周りに12人の使徒達が静かに佇んでいる。しかし照明は全て消されていて薄暗い空間の中で中央に垂れ下がる燭台の蝋燭だけが静かに燃えていた。陽が昇ってきたせいか高窓のステンドグラスから落ちてくる光が、床の木目に十字架を携えたキリストらしき色絵を映し出していた。

「見て。僕が一番好きな絵」

礼拝堂の真ん中まで進むと美貴がためらいがちに天井を指差した。美貴の静かな動きはどこか遠い国の神官のごとく、裾の長い衣装から遠慮がちに差し出された白い手は、羽衣をまとった天女のようであった。美貴のこの天空を仰ぎ見るような動作は、どこかこの世のものでない高貴な女子高生離れした印象を亜弥に植え付けるのだった。 そこには礼拝堂の蒼穹の中心から同心円状に天井絵が描かれていた。それは、「最後の晩餐」というよく知られたダビンチの絵画の模写あったが、礼拝堂の天井は、本格的に石造りであり、その上に特殊な染料を使って描かれているので、年月を経るごとに石の朽ち方が色素の滲みに連なって、まるで中世に描かれたような不思議な重々しさをもって部屋全体を包んでいた。

「僕は、死ぬ前に食べることがこの世で最高の食事だと思うんだ」

この絵がキリストの最後の食事の情景が描いていることを指してか、美貴は高い声をわざと押し殺したように言った。美貴の瞳に、燭台の蝋燭の焔が映って、遠い星の光りの小さな一点に見える。美貴はやや頬のあたりを紅潮させ、安らかな表情で絵を見つめている。亜弥には、美貴がこの絵の中の聖人達の一人ひとりに重なって見えた。

「美貴、あたしは」

亜弥は言いかけて止まった。美貴は自分の瞳をみつめてくれるだろうか。亜弥は何かこの瞬間、自分が決定的なことを言ってしまうような怯懦を自分の中に感じた。 「あたしは、美貴が本当にそこにいるのか分からなくなるときがある。あたしには美貴は、いつもそこにいない気がする」

美貴は虚を突かれたように黙っていた。亜弥はもどかしく思った。自分が放った言葉のその行く先が知りたかった。美貴が急に亜弥のほうへ身体を向けた。動かぬはずの絵画の人間が突然動いたように亜弥の身体はびくりとした。亜弥のどうにも答えようもない言い草にも幾分の確信が認められるとでも言うように美貴の二つの目はまっすぐに亜弥を見ていた。

「亜弥、僕はもうすぐ自殺するんだ」

美貴の声は、言い終わらないうちに礼拝堂に吸い込まれるように消えて言った。揮発しやすい美貴の言葉は、高貴な人間の清らかな宣言のように聞き取れた。 最初、亜弥は、美貴の言葉に自分が泣き出すのではないかと思った。ところがしきりに美貴の台詞を心のうちに反芻するごとに安堵に近い感情が生まれてきたことに亜弥は驚いた。美貴は常に死を思って生きている。今もこの瞬間も美貴の本質はこの生の世界にはいないのかもしれない。そう考えれば亜弥の不在感は納得できるような気がした。

亜弥の心は、まるで美貴だけを思う強い感情に化身した鎧に覆われている。しかし中身のほうといえば、完全に空洞になっている入れ物のようだった。一見それは、何物も割ることのできぬ頑丈さをもって外側からは見られるが、守るべきものをもたないイージスの盾はもつだけに虚しさは増殖し、ついには内側から腐り果てていくのではないかという恐怖がつきまとった。美貴は亜弥にとってもっとも近くにいる不在者なのだった。その空洞の原因が今突き止められた。

いやもっと言えば美貴の不在は、亜弥の手中にある不在にまで降りてきたのかもしれない。何故なら亜弥は自分の死をも最も自由にできる事柄だと思っていたから。二つの死。固く結び合うべきそれはすでに亜弥の中では自明のものになりつつあった。美貴がいること。これほど亜弥にとって無上の喜びでり、限りなく不安であるものはない。実在ほど不完全なものはなく、不在というほど完璧で安楽な桃源郷はなかった。亜弥は確信した。実在という場所で一度出会った魂が、不在という遥かなる場所でもう一度出会うことができるはずだった。

日曜日の朝、亜弥は何食わぬ顔で歩いていた。寮の部屋の柔らかなベッドの中に美貴を残して。にも関わらず亜弥は美貴に会いに向かっているのだった。亜弥の足は例の学校の礼拝堂に向かっていた。美貴に会いに行くという目的が、亜弥の歩みを早めた。いつもは生徒がざわめいている校舎が静謐に包まれていることも、朝もやの中で花壇にあるオレンジと黒のマリーゴールドが花が焔が燃え立つようにさかんであることも、夥しい数のキアゲハが寄ってきてそれはさながら火の粉のごとく映じていることにも何一つ気をとめることをしなかった。亜弥の目の中にただ礼拝堂だけがくっきりと見えた。

「美貴!」

亜弥は早歩きで近寄りながら礼拝堂に向かって叫んだ。急に亜弥の手が震えた。これはわざとではない、確信が出させる声だと亜弥は自分に言い聞かせた。

「美貴!」

もう一度美貴を呼んだときにはすでに亜弥は礼拝堂の硬いドアを押し開いていた。美貴はやはりいなかった。呼んだ相手がいないとき特有の静けさ、あの突然止まった工場機械が繰り広げる激しい虚無感があたりじゅうに波及してきた。部屋の中は、燭台の蝋燭は消え、光るものは何一つなく全てのものが永劫の沈黙を保っているかに見えた。

一歩部屋に入るとき、亜弥は美貴がいないことを努めて意識しないようにした。そうすることで、手触りのよいシルクのネグリジェだけで美しく背の高い女性、なかんずく肌目の細かい色白の−を連想させるようにかえって美貴の不在がいっそう艶かしく官能的に際立たってくるのだった。美貴の不在は礼拝堂の中のあらゆる備品に宿った。美貴がいつも座っていた椅子に、美貴と歩いた中央の通路に、とりわけ美貴の不在は、あの美貴がお気に入りのダビンチの絵に吸い寄せられて集まってくるようだった。亜弥は、天井の絵が一番よく見える位置に立った。美貴はここで星を眺めるように上を見やっていた。

そのとき、ちょうど昇り始めた太陽が、虹色のステンドグラスを通して礼拝堂の内部を鮮やかに賑々しく照らし始めた。見上げれば天井に光があたって暗闇に隠されていた絵が徐々に彩色を帯びて本来の姿を見せ始めた。 亜弥は自分に重なって透明な美貴の像がそこに存在しているように思った。美貴が亜弥の視線を動かしている。すると探していた夜空の星座を突然見つけたときのように最後の晩餐の絵の一点一点の部分が突然立体的な意味をもって亜弥に迫り始めた。亜弥は自分の目と美貴の視線が同じなのではないかという錯覚に陥った。絵の中央に描かれている遠い窓から黒い鳥が崖の上を旋回しているのが蟻のごとくわずかに見えた。この絵にある最後の晩餐会場は、高い山の上に立っている小屋なのだと思った。

部屋に戻ると美貴が浮かぬ表情でベッドの上段にあぐらをかいていた。

「亜弥、僕は今キリストの夢を見たよ。十字架の姿そのままだった」

美貴はさもおかしそうに笑った。ふいにダビンチの最後の晩餐のイエス・キリストが思い出されて亜弥はぎょっとなった。絵を見続けてしまったおかげで生々しいキリストの顔がずっと頭にこびりついている。 「磔にされていたの?」

美貴はうなずいた。

亜弥はキリストはどんな表情をしているかを聞くと、美貴は夢の中はものすごく暑くて昼間みたいに明るかったけど十字架は太陽を背にしていてキリストがどんな顔をしてるかまでは分からなかったと言った。亜弥は理由は分からなかったが美貴の夢に出てきたキリストはすでに死んでいるのだと思った。

「キリストの最後は聖書と同じだった?」

「ほぼ。福音書にあるような説教をずっとしてた」 美貴はそう言って着ているものを脱ぎ始めた。美貴の小麦色をした美しい肢体が露わになった。多分それは違う。キリストはもう死んでいるんだよ。亜弥は言おうとしてためらった。代わりの言葉を探そうとして必死に聞いた。 「キリストに何か言われた?」

美貴はうなずいた。

「お前が死ぬことを許さないって」 美貴は舌を出して笑った。

「湖へ行こう」

美貴は亜弥を急に外に連れ出した。亜弥は美貴の肩に飛び乗って言った。

「馬車にのりたい」

あたりにはまだ誰もいなかった。美貴は亜弥をおぶったまま道をかけ始めた。亜弥はゆっくりと息を吸い込んだ。しっとりとした美貴の髪の毛がシトラスミントの香りを含んで亜弥の鼻をくすぐった。

亜弥をのせた馬車は全速でかけた。礼拝堂までの途中に木々や花を植えた小さな植物園がある。うっそうと茂る植物の間を縫うように小さな小路が続いている。亜弥は振り落とされぬように美貴の肩をしっかりと抱きしめた。美貴と一体になって潅木の間を風をきっていると自分が人間ではない野生の生き物になった気分になった。ふと森の生き物が、常に張り詰めた弦楽器のように完璧に全力で走っているのは自然の義務なのではないかと亜弥は思う。もしそうであればこのまま死んでしまってもいいと亜弥は思った。自然がこのように永劫に美しいままならばいずれ死を迎えるであろう美貴と一体化して土や水に再び戻っていけばいいのだ。

美貴の亜弥の足を押さえている手は吸盤のように圧着し、亜弥の全神経は美貴につかまれている足に注がれていた。美貴の筋肉の生動するさまは敏捷性にとんだカモシカのようだ。道に少しの段差があるごとに二人は軽く空中を飛んだ。 やがて美貴の足はとまった。あたりの澄んだ空気が水の気配を感じさせた。二人でしばらく並んで歩くと木々の間から湖面が見えた。そこから道は周りを眺望するように湖の周囲を囲んでいる。

亜弥は美貴をじっと見つめてみた。瞳には湖を囲む木々や所々で光りを反射する湖の波間が見えるばかり、濁り一つ感じられない。亜弥は死の影というものは決して濁らないのだと思った。死の影は、生を完璧にまで洗浄して透明になったものだとすれば美貴の瞳に死の影一つ見出すことができないことは、何も不思議なことではないように思えた。 二人の間で湖を波立たせる風が起こって美貴の髪をゆらした。そのとき、亜弥は一瞬、その風に両手をのせて美貴の髪に触れようとした。が髪の動きがゆるやかにウェーブをしたのでかえって触れるのがためらわれた。美貴はむごいことに髪の毛をこれ以上波立たせないように髪の毛をゴムでしばる仕草をした。亜弥はそれを痛々しい目で見ていた。

いつしか二人はお気に入りの湖の波打ち際まできていた。水に侵食された岸辺はそこだけ草木の繁茂がなく、木製の杭のようなものが何本も水際で打たれていて土が溶け出していくのを防いでいた。杭の手前で不純物のない透明な水が伸び上がったり縮んだりしている。そこは人工的で何の情緒も感じられなかったが、ふと視線を遠くへ移すと湖岸の対面には亜弥たちの学校、それも高台にある礼拝堂が黄金色の光りを背に受けて勇ましい姿をこちらへ投げかけている。

「美貴、見て。礼拝堂」

美貴は目を一瞬だけ細めたような気がした。しかし次の瞬間、その仕草が単に礼拝堂のあの絵を想像して気を緩めたのではないことに亜弥は気づいた。 にわかに不気味な獣の咆哮のような芯から響く地鳴りが始まった。対岸の岸が揺れている、のみならずごうという地割れのような音が次第に大きくなり始めていた。振動は水にも伝わり、波を細かく切り刻んだような黒い線が何本も湖面に走っている。そして亜弥たちがたっているこの場所も、後退しつつ沈み始めたように感じた。

「亜弥、逃げよう。地震かもしれない」

美貴は亜弥の手をとって駆け始めた。亜弥はどこへ逃げたらよいのか全く分からないままひたすら美貴の手を握り締めて足を動かした。美貴の手は走るごとにいっそう強い力で窄まってきた。黒っぽい緑の凹凸が亜弥の視界でめまぐるしく回転し、まるで荒い海の渦潮の中に巻き込まれていくようだ。亜弥はただ美貴が進む一点へ亜弥は吸い込まれていった。

気がつくとあたりの陽の光りは失せ、あたりは薄暗い霧のようなものに包まれていた。亜弥の胸の辺りに恐怖に近い慟哭があった。それはこの地震で何かが失われたに違いないという確信めいた怯懦であった。 礼拝堂の姿、それはいつも見ているものと変わらない気がした。しかし亜弥は激しく憔悴する美貴を見た。彼女の目は大きく見開き、視線はあちこちに座って定まらない。美貴は亜弥以上に動揺し、怯えているように見えた。

微かに石の山が削れるような不吉な音が礼拝堂の中からした。それは聞こえるはずのない音であった。いつも二人は礼拝堂から聞こえるミサの澄み切った賛美歌や玲瓏たるピアノの音、外にまで響き渡る管弦楽の調べを耳にしていたのだ。美貴は、ドアを左右に押し開いた。亜弥にはその動きがすでに舞台女優が悲劇的なヒロインの物語の哀れな幕開けを演じているように感じられた。

内側は石灰のような粉っぽい埃とコンクリートを削ったような人工的な匂いが充満していた。そして目の前には白い石の山があった。

「最後の晩餐が壊れてる」

美貴は一言だけ言った。思わず見上げると天井の絵は完全に失われていた。天井部分は完全になくなっており、巨大な刃物で削り取ったように絵の部分だけ丸い大きな穴が開いていた。地震で崩れ落ちた天井の絵が目前で白い山を築いている。ダビンチの「最後の晩餐」は何十万ピースもの石の欠片と化したのだ。 美貴は苦しい体勢からたった今向き直ったように平然としていた。亜弥には一瞥さえくれずにひたすら割れた絵の山の前で立ち尽くしている。

亜弥には美貴が今悲しみに包まれているのか、衝撃の大きさに何も言えないでいるのか判断がつかなかった。ただ、亜弥の中で美貴の全てが、美貴の死を含めた美貴への思考がすさまじい勢いで自分の元から遠く離れていっていることを感じた。

亜弥は一人、寮へ戻った。部屋は慎ましやかに亜弥を迎えた。あれほどの大地震もこの部屋には影響しなかったのか、部屋は朝に美貴と出かけたときのままになっている。だが部屋の中の生気のようなものが消えていた。部屋を飾る時計やテーブル、もろもろの調度品は薄闇の中で一様に沈んでいた。美貴のいない部屋は暖房のきえた冷え冷えとした寂しさに満ちていた。

その日の夜、礼拝堂には黒い服を着た祭司達が集まっていた。彼らは松明の明かりをかかげ頭から足の先までをすっぽりと黒い布で覆い、青白い顔だけを不気味に覗かせていた。彼らは急ぎ足で礼拝堂の中を出たり入ったりしている。すれ違うたびにお互いに囁くように耳打ちをして、また小走りにそれぞれの方向へかけていく。月明かりの中で黒子たちは、あたかも邪悪な祈祷のために集まった死神のようであり、聖なる礼拝堂が邪教によって蹂躙されていくさまをみるようであった。彼らは、地震によって壊されたキリストの絵によって築かれたあの白い山を観察しているのか。それはさながら呪わしい悪魔の検分を見ているようであった。

亜弥は部屋のコンロの火をつけた。燃やすことで部屋の中に篭った陰湿な空気を振り払うように。亜弥はありったけの野菜を焼き始めた。やがて部屋の中を香ばしい乾いた匂いが満ちてきた。亜弥の行為は何かしら儀式めいた悪魔を追い払うような祈りのようであった。しかし焼きあがった野菜にはすぐにも湯気の後を忍び込むようにして、寒々しい空気が速やかに部屋全体を覆っていった。

亜弥は目覚めた。いつもよりかなり遅い目覚めだった。重たい頭と乱れた髪を徴として呆けた朝が亜弥を包んだ。授業はもうとっくに始まっているだろう。なのに亜弥はまだ自分は夢の中にいるような気分だった。白ばんだ朝の空気は人間を異常にさせる夜の濃密な空気を消し去っていったかのように見えた。しかしそれは朝の麻酔のせいかもしれなかった。朝のほうが突然人の心に真っ暗で鋭利な現実を突き刺すのには調度よいものだ。

怠惰な朝において、何もしないよりも何かしら行動したほうがましだというひたむきさのせいか、突然亜弥はベッドから立ち上がった。窓際まで歩いて、陽の光があちこちからもれる分厚いカーテンを横にすべらせると、純粋なる無償の光が亜弥の元へ差し込んだ。その恵みのような朝の明るさがかえって亜弥を不気味にさせた。陽光のまぶしさによって朝の窓は細かく震えているようだった。この朝の光は嘘かもしれない。この光りはあたしを騙そうとしているに違いない。亜弥は窓を力強く左右に押し開いた。

「美貴が死んだ!」

窓をあけた刹那、こんな級友達の声が聞こえた。

「美貴が死んだんだよ」

今度は耳元にいたずら好きの悪魔が囁いたように聞こえた。

亜弥は美貴がこんな話をしていたのを思い出した。昔、中世ヨーロッパで魔女狩りが行われていた頃、たくさんの女たちが無実の罪によって捕らえられた。教会の異端審問会は堕落し、虚言や賄賂、あるいは自分たちの欲望によって女たちの処刑を決めた。ある女は、足首から逆さに吊るされて顔を高潮させ、憤怒と怨念の入り混じったような顔をこちらへ向けている。彼女の命運はもういくばくもないだろう。その女こそ自分の生まれ変わりだと美貴は言った。

「僕はもう何度も同じ夢を見てる」

亜弥は、煮えたぎる石釜の黒煙を背景にして美貴が裸のまま吊るされている場面を一瞬想像して全身の神経が逆立った。美貴の口からは熱い吐息が苦しげに吐かれた。それは地獄の業火に包まれた悪寒のような快楽であった。亜弥はそのとき、自分は何らかの形で美貴の死に関わるだろうと思っていた。それはやがて自分自身の死につながり、二つの死が重なり合って固く結び合うのだ。だが、今はどうだろう。美貴の死は遠い空の彼方へ離れてしまっている。窓の外は明碧に晴れ渡っている。美貴の死と亜弥をつないでいるものはもはやこの青空以外にはないのかもしれない。亜弥は急激に沸き立つ怒りを感じた。

礼拝堂の祭壇には夥しい数の花が飾られていた。虚ろな心でいた亜弥に花の香りと色だけが心に隙間なく入ってくる。思考を失っていた亜弥の心は、これらのものに抵抗することなく好きなだけ蹂躙された。半ば酩酊状態のようなうつけた心で亜弥は、これだけの数の花が集まると花があたかも自然の所作によるものではない、あらかじめ準備された神の恣意的な美術品ではないかと思える。では美貴の死は運命なのだろうか。美貴は神に殺されたのだろうか。いや両方違う。美貴は神を裏切って自分の意思で死んでいったに違いないと亜弥は思った。これは神に背いた美貴へのせめてものはなむけなのだ。

亜弥は、中央に置かれた美貴の写真を凝視していたが、そのうちに目がつかれて、写真の周囲がおぼろげに滲んできた。いろいろな美貴を思い出そうとしても、もはや亜弥の頭の中には美貴の一つのかたち、ひとつの美しい面影しか残されていなかった。

やがて澄み切った賛美歌がやんで、全員が着席した。ふと亜弥は最前列で喪服を着て、ひざまづいている女の人を見た。なぜかは分からなかったが、その人のところだけ、舞台俳優にあてるようなスポットライトがあたっている。崩れ落ちそうな姿勢にも関わらずその一心不乱の祈りは決して痛ましくはなく、聖人達のそれのように優しくそして静謐だった。その顔がゆっくりと振り向く。あきらかに亜弥を見ていた。その人はまごうことない高貴で憂わしげな美貴の表情であった。

亜弥にとってのあたらしい生活が静かに始まろうとしていた。亜弥は以前のように思い出に生きようとした。かつて美貴のいない瞬間は幾度もあったように、しかしそれが二人を引き離すどころか堅固な結び合いを示していたことに亜弥は希望を託した。美貴の死へのいざないは、決して美貴の不在を意味するものではないと思い込んでいたのである。

だが、今亜弥の心に宿るものは柔らかい天使の羽毛のような思い出ではなかった。それは、優しくも残酷な暴力であった。かつて美貴の死は、甘美な永久の恋を謳いあげていた。しかし今に至っては美貴の不在にまざまざとした生が宿り、亜弥の心を痛めつけはじめた。それは美貴の不在が本来の姿をむき出しにし始めたかのようであった。亜弥の中の美貴の死は偽りの死にすぎないことを亜弥は思い知らされた。美貴の不在の生がまざまざと亜弥のなかへ蘇った。それは後悔と疑念に似ていた。いやそれ以上に亜弥を苦しめたのは、あれほど待ち焦がれた美貴の不在による美貴との思い出なのであった。

亜弥は一人、礼拝堂の祭壇の前に立った。亜弥は美貴を前にして伝えたいことが言えなくなることがこれまでも何度かあった。だから亜弥はあらかじめ手紙を用意していた。亜弥の言葉は、誰もいない礼拝堂の頂上へ向かって謐々と木霊した。それはキリスト教の習慣にはない弔辞に似ていた。しかし、弔辞には美貴との思い出は一切記されなかった。

美貴への手紙

美貴。あたしは、あのダビンチの絵の中へ入っていったことがある。あなたにそれができたのと同じように。絵の中でキリスト達は小屋で弟子達と最後の食事をしようとしていた。でもそこはこれまで言われていたように普段キリスト達が祈りを捧げた場所なんかではなく、そこからずっと離れた高い山の上だった。あたしにも見えたんだ。キリストは弟子の一人に呼び寄せられてわざわざあそこへ行った。そしてキリストは本当は知っていた。
この食事に毒が入れられていることを。それを知っていたのはユダだけじゃない。キリストの死を期待しながらあの食事をしていた弟子がもう一人いる。でもそれは誰かまでは分からないんだ。もしかしたらあの崖の上を優美に飛んでいるコンドルがそれを知っていたかもしれない。キリストのあの顔は死に向かって安らかな顔を見せていたんだ。だからあなたは、キリストのように死のうとした。
だけどね。美貴。美貴が死んであの絵が崩れてしまってからあたしが絵の中へ入ることはもう出来ない。もしかしたら美貴とあの絵はどこかでつながっている気がするんだ。美貴が今でもあの絵の中を自由に出たり入ったりしてる姿をあたしはずっと見るんだ。そしてあたしには分かるんだ。あの絵を復元したらきっとあなたが絵の中に映っている……



亜弥は美貴と一緒にすごした部屋のなかでひたすら喪に包まれていた。亜弥自身は恐らく静かな時間を求めていたに違いない。それは今にも時計の秒針の震えが伝わってこようとするあの微妙な間合いや、眠りに落ちる一瞬前に感覚が異様に研ぎ澄まされていくような、そんな静謐な時間だった。しかし亜弥の内面はそれを許さなかった。亜弥は喪に服するというよりも、一途に美貴の幻影を追い求めているようだった。幻影は亜弥の前に絶えず現れ、しかもそれはつかめそうでいて、空気を触るように感触がない。無視しようとすれば、驚くほど精巧な美貴の姿となって再び亜弥の前に現れる。亜弥の心の中は激しく、もがき苦しむ獣のようだった。半ば狂気にも似たそのいたちごっこは、亜弥の命を吸い尽くすまで永劫に続いていきそうだった。

しかし亜弥はこの部屋を出て行きたくはなかった。部屋を一歩出ると、日々新しく生まれてくる風が死者の匂いを容赦なくかき消していく。もはや礼拝堂にも、美貴とよく過ごした湖にも、道の途中にある潅木の集落にもどこにも美貴の死は残されていなかった。ただ亜弥だけが美貴の死を色濃く残した。亜弥は自分自身が部屋の外では唯一の美貴の遺留品だと考えた。亜弥は、外に出なくてはならないときは、髪型も服装も美貴と同じにした。亜弥とすれ違うと歩いていると人はぎょっとなって振り返った。少し見ただけではどちらか区別がつかないぐらいその姿は似ていたのだ。

亜弥は毎日繰り返し、部屋中の調度品の一つ一つに触れた。美貴の物から美貴が生きていたときの喜びに似たもの、あの無上の快楽を少しでも与えられたかった。しかし物は、最初こそ亜弥が触れるたびに何らかの声を上げていたがそれも次第に効力を失っていた。それはひょっとしたら亜弥の飽きを意味したのかもしれない。

亜弥が何度も同じものに触るにつけ、部屋全体があたかも物に頼ることは無駄であることを語り始めたようだった。それは亜弥の中の何らかの変化、亜弥の中で美貴の死がいよいよ力強い生を発揮し始めたということを意味したのではないだろうか。美貴を追い求めるごとにほとばしる炎は、まるで海岸の潮がひいていくように勢いを失っていった。亜弥は自ら追い求める激しい内面が静かにゆるやかに後退していくのを、為す術もないまま立ち尽くして見ていた。

ある日、亜弥は友人達の訪問を受けた。それは美貴の死以来かなり疎遠になっていたクラスメイトや同級生達であった。

「亜弥、湖へ行こう。そしてボートに乗ろう。

「あたし達は何とかして亜弥を励ましたいんだよ。

「みんなでよく湖のボートに乗ったでしょう?あの波ひとつないボートを力いっぱいこいで、みんなで笑いあってた。亜弥は、ボートを漕ぐのが一番好きで一番早かった。それを思い出そうよ。」

「亜弥、行こう。あたし達は心配なんだ。」

湖の真上から見ると少女達の白い制服がゆったりと湖に広がっていくのが見えた。湖水面は、青く際立ちオールが軋む音とともに甲高く若い笑い声があふれていた。湖の周囲にはチョコレート色をした潅木が囲み、鬱蒼とした森の息吹と湖のため息とが絶えず呼吸するように投げかけあっていた。

亜弥は一人でボートに乗っていた。オールは機械のように同じ動作を繰り返し、すべるように波間をかいくぐっていった。オールをあげ、両足で身体を踏ん張るたびに亜弥は顔をしかめた。久しぶりの運動のせいで、亜弥は腹部の筋肉がつるのではないかと思った。それでも亜弥のボートは大変速いスピードでぐんぐん他の船を引き離していった。亜弥の勢いだったオールは、湖をえぐるようにかきわけ、船脚は濃く、水面に深い傷をつけて進んでいた。あたかも亜弥の身体は上気し、怒りに満ちているようだった。

「亜弥!」

はるか離れた湖の端からよく通る声を聞いた。少女の船たちは、もう岸辺のあたりに群生している。湖面には少し間延びした影が映っていた。気がつくとすでに日が傾きかけていた。溌剌とした時間は終わりを告げ、亜弥はボートはゆっくりと集団に向けた。亜弥は身体の熱を少しでも冷まそうと水面ばかり見ていた視線を、隙間なく湖を囲んでいる森に移した。そこには深海のごとく鬱蒼とした闇があたりを覆っているようだった。しかし森の上には未だ燦爛とした夕焼けが降り注ぎ、光を求める動物達が暗闇の内側から日没の優雅な光をうっとりと眺めているようだった。

亜弥は集団の後を少し遅れてついていった。亜弥は疲れ果てていた。そのときの亜弥はもはや生気を失った生き物、あたかも仕留められて息を絶えようとしている獣のようであった。そして力を失った人間は何にでも感じやすくなっているのかもしれない。

亜弥は何を思ったか皆が通り過ぎたあとの、ローレライと呼ばれている湖の岸から少し離れたところにある小さな岩の前で船を止めた。亜弥は岩の前で澄んだ湖面を眺めやった。海面に出ているのはわずか数メートルほどつきでた小さな岩なのだが、根元のほうは、意外に深く地の底まで通ずる階段のように無限の湖の底へ向かうようだった。

そのとき、亜弥は小さく叫び声をあげた。船とオールが静かに軋む音の間から突然、漏れ出してくるように歌声を聞いたのである。それは甲高く遠くのオペラのように聞こえてきた。この岩のそばを通ると歌が聞こえてくるという噂が前まであったのだが、それはローレライという名前をつけた時点でついてくる迷信のようなものだと亜弥は思っていた。しかし今度は蝶のはばたきのように低吟する歌声がはっきりと聞こえてきたのである。その音は耳を凝らして聴こうとするとふっと消えてなくなり、音がないのかと思うとじわじわと滲み出すように歌声が聞こえてくるのだった。

しばらく虚けた気分で歌声を聴いていた亜弥だったが、ある一点から確信的な気持ちに移り変わっていった。美貴が歌っている。そう確信した亜弥は素早く冷静さを取り戻し、水面を隈なく捜査し始めた。亜弥は小さな波が立てる水の線さえ見逃さぬ勢いで水に顔がつくぐらいまで近づけて観察した。歌声は岩に近づくほど大きくなっていくようであった。ひょっとしたら岩の内部から聞こえてくるのかもしれない。亜弥は一瞬、この岩をかち割りたいという衝動にさえかられた。

「ここだよ」

そのとき、今度は紛れもない美貴の声が響いた。見上げれば薄い衣をまとった人魚のような姿で美貴が岩の上に座っていた。美貴の身体は全体的に薄い紫と緑色で包まれていた。想像通りの奇跡が目の当たりに起こって亜弥は声一つ発することができないでいた。亜弥の心理状態においては、目の前の出来事に対して何一つ行動を起こすことができなかった。ただ受け入れ、体験することが自体が麻酔の作用を伴っているのかもしれない。幻への抵抗をあきらめた亜弥は、引きずり込まれるように湖へ落ちていった。冷たさはあまり感じなかった。

真っ白な雲の上を亜弥は浮かんでいた。上を見上げれば丹青な色紙をしきつめたような一点の曇りさえない広い空。そこから降ってくる日差しがあたりの雲母を等しく黄金色に染めていた。あたりはあまりにもまぶしかった。亜弥はここは天国に違いないと思った。天国ならば美貴を探そう。そう思った瞬間、ベッドの上で目覚めた亜弥は友に助けられたことを悟った。もう一度眠ろうとした。しかし、眠気は二度と戻ってくることはなかった。

これまで幻想や妄想が決して亜弥に美貴を与えることをしなかったように、この苦しみは決して亜弥に死を与えることはないことを亜弥は知っていた。苦しみは亜弥の身体をもはや蹂躙し尽し、焼けた後の陽炎のような煙がわずかに立ち上っている。亜弥には熱が去ったあとのひからびたような肉体だけが残っていた。亜弥はひもすがら古びた木の椅子にこしかけてうつむきがちにその日その日を過ごした。

部屋の中で積もっていく埃は年月を数えるようにうずたかく深くなっていく。しかしそれは不思議に乱雑な汚いイメージを与えずに、まるで羽毛のように降り積もっていくのだった。たまに亜弥が通り過ぎるたび、わずかに表面が崩れ落ち、天使の翼のような微細な毛がちらちらと舞い降りた。

あるとき、亜弥は自分の中に何かが育っていることに気づいた。決してつかみとることができない幻想に跋扈され、蹂躙されるのをただじっと耐えていた亜弥の心に、亜弥自身に由来する別のものが萌芽のように現れてきていた。それは苦しみと攻めぎあいをすることもなく、何の怖れも動揺もないかのようにただ一日を経るごとに泰然と成長してきた。それは亜弥の生の力によるものなのか、苦しみを受容するための心に何らかの変化が加わったのかは分からない。しかしその変化は、亜弥を長い苦悶と矢のように早く流れる時間の果てに確実に別なものに変化させていった。その間、亜弥は何もしていない。美貴の遺品を触ることはおろか、窓から外の風景を眺めることも自然と耳に入ってくる音が聞くことさえ亜弥はしなかった。しかし無為にも思える行為さえも亜弥にはやがて何かが始まる兆候として感じられた。

亜弥は立ち上がったとき突然この上ない心地よい喜びが湧き上がってきたことに気づいた。それは身体が自然と持ち上がるような、まるで上昇する春の息吹のようにやってきた。部屋の中の全てのものが軽やかにはずみ、亜弥に対して非抵抗であった。部屋の中に充満した軽さは、目に映る部屋の調度品の色あいにまで及んだ。亜弥は空気を力いっぱい吸い込んで、窓際まで歩いた。全てが超然的にしやすかった。気がつけばあの萌芽が、今や見上げるほどの背丈にまで育ち、驚くほど立派な大輪の花を咲かせている。

亜弥は窓を開け放った。あの美貴の死を聞いてから一度も開けることを許されなかった窓が、軽やかにほとんど力を入れる必要もないまま両側に開かれた。 亜弥の中で美貴の死が勢いよく復活を遂げていた。美貴の死は、亜弥の中に精緻なまでの美貴の姿を再現していた。美貴の不在とは亜弥の内部での完璧なまでの美貴の内在であるのかもしれない。ゆえに美貴の幻想などはすでに存在しなかった。今や亜弥は何の苦労もなく自分の中で美貴を完成させることができるのだから。

エピローグ

一つの絵画を見るとき、あるとき人は天使の心のような超越した全能感をもった。あたかも自分が絵の中の登場人物であるかのように、また絵をのぞき穴のようにしてそこから広大な世界を眺めた。もしかしたらそんな「ちから」は、普段隠されているだけでもっと世界にあふれているものなのかもしれない。藤本美貴が愛したダビンチの壁画は、その破壊のすさまじさによって一時は修復は不可能とされた。石の破片を元通りの壁画にするためには、断片の形を合わせていくだけでなく、絵を描くときに画家が感じた創造性を再び感じて見なければ何もできないからだ。しかし壁画は実際にはわずか半年という驚異的な早さできわめて正確に修復されたのである。

<終わり>

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