雨女
 
 
撮影用の雨がかさかさと舞い降りていた。円錐形をした水滴が窓の格子にはりついてそこかしこに伸びている。あたしは部屋の中でちょうど窓の傍の椅子に座っていた。雨の音は聞こえない。外の芝生の緑は、雨に勢いを奪われ次第にくすんだ灰色になった。セピア色の風景は何だか絵画に見える。外の自然はあたしにとって人工物に見えた。そして室内にはあまりに自然とはアンバランスの緊張感が漂っていた。
収録中のドラマのタイトルは「仔犬のワルツ」。安倍なつみさんが主演の盲目の天才ピアニストの物語だった。あたしは、施設で目の見えない安倍さんを徹底的に苛め抜く役をやる。
薄明かり用のサーチライトが顔の表面を照らす。部屋の半分はくり抜いてあって、そこから照明と無数のカメラと音響用の機材が覗いていた。人が機械に集中し機械が緊張を伝えてきた。不意に不安になる。きちんと芝居用の声はだせるのだろうか。顔が重たくて仕方がない。たっぷりと時間をかけたメイクがぴったりとくっついているようだった。目の前正面の椅子に安倍さんが座っている。安倍さんのわずかにつりあがった目を見た。それは演じることに身を挺していると感じさせた。こうやって緊張感に足を震わせているといつもにこやかな安倍さんだって何だか別人に見えた。
 これからのドラマの展開は正直知らない。まだ先の台本を渡されていないし、これからのあらすじを知らないことで演技に恣意的なわざとらしさを打ち消す効果もあるのだろう。事実、あたしは「安倍さんをとてつもなく憎いと思うこと」そして「視聴者にとてつもなく憎いと思われること」。この二つに集中できていた。一人での台本の予行演習はもう何十回も繰り返された。今は、その練習があたしの表情となりあたしの空気となった。自分のなかで台本も脚注も何度となく詳細に反復され復習され一つ一つの動きにまでそれは還元されるはずなのだ。
 耳に雨の音が聞こえてきた。スタッフの声とともに物語は開始される。
 食事が始まり盲目の少女は大きく目を見開いた。安倍さんの視線はまっすぐ正面。それはぎりぎりあたしのほおの横にそれて後ろの壁につきささっていた。その目線のまま右手は真下のお味噌汁の位置をぎこちなく確認し左手はご飯の位置を確認した。安倍さんが箸を手に取る。あたしは共演者の大村さんに合図して意地悪で悪魔的な笑顔を浮かべた。
安倍さんがご飯を手に取った隙にあたしは小さな赤銅色の壷を手に取った。中は真っ赤な粉が入っている唐辛子の壷だった。あたしにとってそれはあらゆる種類の香辛料が入っているように思えた。これまでの安倍さんの演技は完璧だ。あたしがそれを安倍さんのお味噌汁に入れればこのシーンは終わりだった。あたしが香辛料を味噌汁に混ぜるという行為が不幸なピアニストの悲しみへと転化させる根源となればよい。後の芝居は安倍さんの仕事だ。あたしの動きに躊躇はない。手はそのまま迷いなく澱みなく味噌汁の上へと動いた。ここでぶれはあってはならない。
あたしは壷をもった瞬間に腕に妙な迷いを感じた。何故だろう。味噌汁の真上でその感覚は強くなりそれは手の脱力へと転じた。はらりと落ちた壷は重い音をたててテーブルにぶつかり連鎖的に赤い粉は渦を巻いて飛び散った。あたしは思わずその劇作的な情景に見とれてしまった。
 「はいすいません。止めます。」
正当でごく機械的な第三者の声が割って入った。がやがやと機械と人が動く。
 「すいません。」
あたしの声は見事にかき消されていた。
 「梨華ちゃん?」
安倍さんは突然の事故に声をあげることなく驚くこともない。NGに際して発した言葉はあたしの名前だった。安倍さんは心配しているような不思議な顔であたしを見ていた。あたしはやっと巡ってきたドラマの出演という機会に作為的に収録を止め、進行を邪魔したのだった。
 
 
あたしは福祉系の専門学校に行ってる時にオーディションを受けてある事務所にタレントとして採用された。ずっと女優とか演じる人になりたかった。専門学校に行ってるときは何かを学びたかったわけじゃない。高校生の頃あたしには当然のように進路として並んでいる「理系」にも「文系」にも興味がもてなかった。結局あたしの頭のレベルであたしが家から通える場所に社会福祉系の専門学校があっただけだ。学校での生活はつまらなかった。興味のないレポートや授業や課題に追われた。人に流されて適当にドトールでバイトしていた。そんなとき、また友達に誘われて身体障害者へのボランティアを始めてみた。特に理由はない。
「明日は一限からあるんだっけ。介護保険のレポートは来週までと。午後はバイトあるから。」
あの頃のあたしはいつも意味もなくスケジュールを確認していた。あたしの目指している女優への道はあまりにも途方もなくていつも現実から乖離しているように感じた。だから時間に忙殺されて不満をこぼし、夢から離れることにかえって安心を得ていた。ボランティアだってそのために始めたようなものだった。ボランティアしながら福祉系の専門学校に行っているあまりにもありふれた自分。考えてみればあたしは、少し夢見がちな普通の少女をテレビドラマの女優のように演じようとしていたのかもしれない。しかしそういう風に自分が意味も無く人に流され、染まっていくことには罪悪感しか感じられなかった。ボランティアに罪悪を感じていたのは恐らくあたしだけだったろう。
 あたしがすることになったボランティアはあたしと同い年の目の見えない少女の話相手をすることだった。彼女は名前を「後藤真希」と言う。適当に言葉を交わして、彼女の親の帰りが遅くなるときは食事を作ったりする。いわばボランティアというより家政婦に近いものがあった。
彼女の家に行く道のりはいつも不愉快な雨が降っていた。冬の雨は傘をもつ右手を凍てつかせ、梅雨の季節はスカートから下着までぐっしょりと肌にはりつかせた。そのときのあたしはひたすら機械を志向していた。不器用で能力のない(できの悪い)人間に思われたくなかったし、やる気のない趣味にも等しい(冷やかし交じりの)ボランティアにも思われたくなかった。そう思われないためにはひたすら機械がよいのだとあたしは思っていた。決められたことを確実にこなせば誰にも気づかれない。余計なことをしなければあたしは正体を見破られずにすむ。あたしの罪悪もあたしの夢も両方同程度にあたしは恥じていた。
あたしは雨の中を早歩きで歩いていた。歩きながら今日、真希に話すことを考えた。目が見えない人には見たことがなくても想像しやすい話がいい。聴覚に訴えるもの−音楽。味覚―料理。そして家族や友達の話。その3つが中心だ。そして食事を作ることになった場合の冷蔵庫の中身を想定していた。真希の家は最寄の駅から延々と続く坂道の上にあってたどりつくまでゆうに20分以上はかかる。真希の家までの行軍時間はひたすらそれを考えることに費やされた。
 預かっている鍵で真希の家の玄関を開ける。真希の家はもう自分の家同然に知り尽くしていた。真希の親はあたしが行った時にはいないことがほとんどで、仕事で帰りが遅くなる母親が帰ってくるのと入れ替わりにあたしが家に帰るというのが習慣化されていた。だからあたしはいつも気兼ねなく真希の家に入った。彼女の親も家に他人がいて余計な気を使うより自分達がいないときに無料で娘の面倒を見てくれるあたしが都合の良い存在なのだろう。
 「梨華ちゃん。」
 奥から真希の声が聞こえた。異様なほど聴覚が発達しているのか真希は音だけであたしが来たことが分かった。それは真希の母親だろうとたまにしか帰ってこない姉だろうとたちどころに聞き分けてしまう。
 「ごっちん。今来たよ。」
その明敏な聴覚のせいで真希との二人きりの生活はあたしにある種の緊張感をもたせた。あたしは偽りのボランティアであることを見抜かれることを最も恐れていた。だから真希の鋭敏な感覚を意識するたびこの盲目の身体障害者はあたしにとって弱者という観念からは逸脱した存在にも思えた。
「今日もごっちんのお母さん遅くなるよね。晩御飯何食べたい?あたし買い物行ってくるよ。」
「ううん。冷蔵庫にあるものでいい。」
真希は常に我侭を言わなかった。
「そう?遠慮しなくていいよ。」
「いいよ。梨華ちゃん。それよりこっちきたら。」
真希はいつも縁側の椅子に腰掛けている。わずかに感じられるという光を求めているのだろうか。それともその鋭敏な聴覚で外の様子を感じ取ろうとしているのだろうか。
「お。気分よさげだねー。」
「雨の音が心地いいんだ。」
あたしが傍にやってくると真希がそう言って笑った。
彼女は穏やかな顔をして縁側の木の椅子に座っていた。椅子には様々な毛布やエプロンや服のようなものが無造作に被せてあった。こうして見ると真希はまるで置物の人形だ。
彼女は身に付けている服と共に椅子に吸い取られるように同化していた。
 「梨華ちゃん。手を貸してみて。」
 真向かいの椅子に座ったあたしに真希が言った。
 「また?何よ。」
 あたしは、少し面倒だった。真希は人の手を触って、その人が今楽しい気分でいるとか悲しんでいるとか当てようとする。その真希の推測に話を合わせるのが面倒、というよりマニュアルどおりのこちらの話しにうまく持ち込めないことが嫌だった。
 「また、雨が降ってうざーい。とか思ってるでしょ。それに・・・」
 フランス人形みたいな真希の顔がわずかに笑った。すごく美しい。すごい可愛い。なのにあたしは思うのだ。それは要するに目が見えないという能力の欠如の代わりにいろんな能力を自分の中に求めているにすぎないと。いやその能力があると思い込み、他人にもそれを認めさせようとする。そういう身体障害者の心理だろう。
 
そうなのよ。外の雨が・・・あたしは言葉を発しようとした時だった。
 
 「梨華ちゃん少し髪、のびたね。」
 真希があたしを見て言った。
あたしは少しぎょっとなったが、それがまた例の擬似超能力者的な感覚なのだろうと思い直した。彼女は目が見えない。程度は光をやっと感じとれるぐらい。人がそこにいるかどうかさえ分からないはずだ。
「見えるの?」
「見えない。分かるだけ。」
「そっか。」
真希は、分類すれば情緒が安定していて抜群に聞き分けがよい優等生の身体障害者だ。こういう人たちは本来なら社会を憎み世の中に絶望して暴れ回るのだ。あたしたちは冷静にそれを諭し話しを聞いてあげ、服を着せ、物を食べさせ寝かしつける。それが仕事だ。そしてあたしにとってそういう任務である限り何の違和感もなかっただろう。だけど真希は少し違った。真希は何か自分を特別な能力があると思わせて人の気を惹こうとする。これは、身障者にありがちな傾向だ。だけどそれをあまりに自然に話す上に、逆に人の気持ちにも入り込もうとする。それはあたしが一番恐れていることだ。だから雨の日、とりわけ真希の家に行くときはボランティア活動をするというのと違った意味で気が重いのだ。
「人に触れたら何となく分かるんだ。それと梨華ちゃん最近疲れてるって。学校に行く以外はバイトでしょ。ここに来るのだって疲れるよ。ボランティアだって仕事でしょう。」
真希はあははと笑った。
「それにさ。前言ってた舞台劇のオーディションどうだった?本当はこんなことしてる場合じゃないんでしょ。」
あたしは目をつぶった。真希のいる黒い絶望の世界を見て自分自身を落着かせようとした。真希は、その世界を逃れるためにわざと余裕を見せている。真希に健常人を心配する余力はないはずだ。だけどあたしにはあまりにも軽薄で現実味の薄い自分のまぶたの裏が見えただけだった。
「梨華ちゃんは女優になれるよ。女優になるためだったらここに来る時間だって減らしていいよ。あたしは目が見えなくても何だってできるんだから。」
真希の言葉は限りなく唐突だった。真希の顔にまた微かな笑いが浮かんでいる。でも笑いには強い意志を含んでいた。真希の顔の表情は目が見えない分何か有機的な意味を持っている。
 「あたし、買い物行って来る。」
 あたしはついに耐えきれなくなってそう言った。
 「だからいいって。」
 「いや。買い物行って来てっておばさんの書き置きがキッチンのテーブルにあった。」
 「書き置きはないよ。」
 あたしは真希を無視して席を立った。
 真希の言うとおりそんなものはあるはずがない。あたしは真希から逃げようとしている。そして自分の夢からも逃げ出したいと思った。
 電気をつけていないせいで台所はすっかり暗くなっていた。目の前に食器棚が暗く静謐にたたずんでいた。自動車のライトだけが窓に乱反射して時々光の棒を動かしている。しんと静まり返っている部屋。あたしはふとそのままテーブルの椅子に座った。勝手に人に家に入り込んで見知らぬ住人の家族のようにあたしは振舞っている。あたしは一体何をしているんだろうか。そう思って両手をテーブルの上に投げ出したときにざらざらした紙のようなものが指に触れた。まさか本当に書き置きがあったのだろうか。しかし、それは書き置きの紙にしてはあまりにも分厚くて大きなものだった。それは1枚の大きな画用紙だった。
 カチ。音がして台所に光が広がった。蛍光灯のスイッチのところに真希がぼうっと立っていた。あたしはびくっとして後ろにつんのめった。同時に画用紙の中の絵が鏡になってあたしの頭の中へ飛び込んできた。真っ黒な髪の女の子が映っている。みまちがえる筈もない。それはあたしを描いた絵だったのだ。
 「それ梨華ちゃんなんだ。いつも雨の時ばっかりやってくる。不思議な優しい女の子。梨華ちゃんが来るまで暇だったからいつも梨華ちゃんを想像して描いてた。」
 驚いたことに絵の中のあたしはあたしにそっくりだった。そして万面の笑みを浮かべていた。笑顔が赤と黄色とカラフルに見事に表現されている。バックは薄暗い雨雲が描かれているというのに。
 「だからあたしは雨が好きなんだ。」
 真希は言った。
 
 耳の中だけで雨の音が聞こえる。盲目の天使はピアノを弾く。あたしの役柄は・・・。あたしは演じなければいけない。真希と約束したのだ。
 気がつくと撮影用の雨は止まっていた。くすんだ緑は華やかさを取り戻していた。あたしは休憩用のテーブルに突っ伏していた。ここのロケ現場で撮影するのはもう後何回かで終わりだろう。あたしの出番は終わり、安倍さん達は東京で収録の続きをすることになる。さっきの撮影シーンは結局あのNGの後、機械の調整をするとかでついでに休憩となってしまった。あたしは目を閉じて、少し動転していた自分を反省し冷静さを取り戻す。台本を片手に今度こそきちんと演じようと必死に自分に念じた。
 「お疲れ様。梨華ちゃん。」
 最近仲良くなれた安倍さんが話し掛けてきた。目を強くつむっていたせいかうまく対応ができない。
 「やっぱり目が見えない人相手って難しい?」
 「え?」
 あたしは慌てて首をふった。そして軽く鼻をすすった。
 「さっきテーブルのシーンで何かやりにくそうにしてたからさ。」
 「そんなことないですよ。」
 続けて「ただの演技ですから」と言おうとして口が塞がった。演技するのに「ただの」なんて言葉はつけられなかった。そのためにあたしはあらゆる苦労と努力をしているのだ。
 「そういえば梨華ちゃんて目が見えない人のためにボランティア活動してたんだってね。だからそういのでやりにくいのかなぁって。」
 安倍さんは天真爛漫に聞いてくる。多分悪意などないのだろう。
 「演技するのに個人的な過去の経験とか気持ちとかって入ってきていいもんなんですか?」
 あたしは安倍さんに食って掛かるつもりはなかった。だけど結果として出てくるものは刺のある言葉になる。
 「んー。そうだな。」
 安倍さんが考えるのをあたしは伏目がちに見ていた。
「あっていいんじゃない。例えば雨が降りの日に失恋したりすると雨の音聞いただけで何となく憂鬱になるとかさぁ。そういう中で演技することだってあるのかも。でもあたしそういう経験ないしなぁ。あはは。あたし自分で何言ってるんだろうね。」
 安倍さんの言葉を聞いているうちにあたしの顔は次第に下がり、うなだれて完全に下を向いてしまった。いつもいつもあたしは仕事場では自信満々に目を見開いていた。だけど今は目を開けられない。前を向けなかった。
 「梨華ちゃん。どうかしたの?」
 あたしの脳裏にははっきりと真希の顔が映し出されていた。あの頃、真希に勇気付けられてオーディション必死に受けるようになった。素直になりたいものに向かえるようになった。自分自身を演じることをやめてついにあたしはテレビドラマで演じれる女優になれたのだ。あたしの完璧なまでの努力も女優であることの強い意志も全ては真希につながっている。でもどうしても唐辛子を入れる勇気は出せなかった。雨の音のせいかもしれない。安倍さんの演技に圧倒されてリアルさがあたしを止めているせいかもしれない。とにかく安倍さんが真希と重なるのだ。真希が食事をしているときに唐辛子を入れることなんてあたしにはできない。あたしの何度となく繰り返された演技への練習が無力だった。何故だか涙があふれてきた。
 「あたし、出来ないんですよ。唐辛子を入れるだけなのに。」
 弱々しくもあたしは言った。共演のタレントはみなライバルだ。そう言い聞かせてきた。だから共演者が演技をしやすいように振舞うことはあっても弱音を吐くことなんてない。まして今は、撮影の真っ最中なのだ。
 じっと安倍さんを見た。安倍さんは無表情でなんて答えていたらよいのか分からないようだった。それはそうだろう。テレビドラマに出る女優が絶妙の表情が出せずに悩むことはあっても唐辛子の粉がふりかけられないなんてことはあるはずがない。本来ならあたしはここにいるべき人間じゃないのかもしれない。
 「出来るよ。だってこの赤い粉甘いもん。」
 安倍さんがあたしに言った言葉は恐ろしいほど単純な解決策だった。
 「え?」
「なめてみ。」
 安倍さんが手に取っているドラマ用の赤黒い壷をあたしに差し出した。安倍さんは平気な顔で粉を指につけてなめている。あたしは、恐る恐る赤い粉を人差し指につけるとそれを舌に少しだけつけた。
 仄かに甘くて昔駄菓子屋で食べた固形ラムネの味を思い出した。赤い粉はあたしの想像からは際立って離れてむしろ小さい頃、夢を見ていた頃の懐かしい感覚さえ思い出させた。
 「でも、これお味噌汁に入れたらまじーだろーなー。」
 安倍さんが続いて辟易とした表情を見せた。まん丸とした瞳に口をとんがらせてまるで不良の真似をしているみたいだった。だからあたしは思わずおかしくなって笑ってしまっていた。       「うん。その笑顔だよ。」
 安倍さんは言う。
 「梨華ちゃんは笑顔がいいからなぁ。その顔が出せてるときの演技は大丈夫だよ。」
 あたしは、安倍さんに言われて自分の部屋に大切に飾ってある自画像を思い出した。それはあの雨の日、真希にもらったものだ。真希はあの時一度も笑ったことがないはずのあたしの笑顔を描いた。その時からその絵の笑顔があたしの目標になっていた。真希は未来の可能性を見ることができるのだ。
あたしは安倍さんにお礼を言うと思わずスタジオから外に駆け出した。外の空気を思いっきり吸って深呼吸する。さっきの青々とした緑が広がっていた。だけど天気だけはいまいちで、少し濃いめの雲が太陽をさえぎっていた。今にも雨が降り出しそうだ。当然かもしれない。あたしは究極の雨女なのだ。だけどそれでもよかった。あたしの中では全てが晴れている。今回の役で晴れた空の下で思いっきり悪態をつかれる役を演じきりたい。そして雨の下で思いっきり笑っていられる人になりたいとあたしは思った。
 
あたしは女優となった今でも雨の中、真希の家に通いつづけている。



雨女 終



 
inserted by FC2 system