SENRIGAN







ぷぁーん、地下鉄のホームに鳴り響いた音。
「はぁ、乗り遅れた。」
体に疲労感が覆ってじわっと汗が出た。
あたしは、体に水滴をへばりつかせてる折り畳み傘をはじめてたたんだ。
「明日は一限が社会学だっけ。文学のレポートは来週までと。」
ホームのベンチで手帳とにらめっこしてる間に次の電車はやってきた。
電車の中は、じめじめとして昼間だというのに陰気な感じがした。
今日をその日に選んだことを少し後悔する。
機械的に電車をおり、雨の中を早歩きで歩いた。汗と雨がまじって何となく不快な道のりだった。ここ何日太陽を見てないだろう。いくら何でも4日連続で雨なんてありえなさすぎる。全く不愉快な雨だ。
 あたしは、乱暴に目的地の玄関を開けると中にずかずかと入っていった。習慣て恐ろしい。ここに来るのももう何十回目だろう。
 リビングに入って勝手に冷蔵庫を開ける。
 ふーむ。あれもない、これもない。おばさん、まだ買い物行ってないのかな。そんなことを思った。
 「梨華ちゃん。」
 ゆっくりとした声が聞こえた。ぎょっとして振り返っても声の持ち主の姿は見えない。
 ふふん。あたしは鼻をならすと台所から縁側まで足を運んだ。
昼間だというのに暗く静まり返った部屋に少しだけ光が差し込んでいる。
案の定彼女は穏やかな顔をして縁側の木の椅子にすとんと座っていた。椅子には様々な毛布やエプロンや服のようなものが無造作に被せてあった。
彼女は身に付けている服と共に椅子に吸い取られるように同化していた。栗色の髪が美しい。フランス人形のような肢体のせいで彼女は置物のように見えた。
 「ごっちん、よく分かったね。」
 分かってはいてもあたしの声は少し緊張して上ずる。
 「分かるよ。梨華ちゃんの足音はたたんたん。」
 彼女の口がわずかに笑った。真希の目は本来の機能をほとんど果していない。
 「気分良さそうだね。」
 「雨の音が心地いいんだ。」
 真希は、この蒸し暑さにも関わらずニットにカーデガンを着ていた。真希の前に座ると、何だかひんやりした。それは一瞬の心地よい冷たさだった。ただ冷たいだけじゃない、何か有機的な意味を持った独特の感覚だった。
 「外、すごい蒸し暑かった・・・。」
 何となくあたしは言った。
 「水も、空気も?」
 「え?」
 あたしは、すこし驚いて聞き返した。真希は、あたしのことをしっかり見て話すことはできない。だから時々言っている言葉を聞きもらいしてしまう。
 「雨も空気も蒸し暑かったんだ?」
 「・・・」
 不思議だった。真希が話すと少しも蒸し暑いことが不愉快に聞こえなくて、むしろ鬱陶しい湿度の泉に身をまかせてもよい気分になる。
 「そりゃ夏の雨だもん。道路も電柱も塀もあめでびしょびしょだよ。気持ち悪いぐらい。」
 あたしは、真希の言葉を振り切るようにわざと誇張して言った。
 「びしょびしょになったらどう見えるの?」
 「分からない。でも黒ずんで見える。まるで墨をたらしたみたいに。」
 「そっか。でも不思議だね。水は透明なのに黒ずんでみえるなんて。でもあたしには分かる。道路も電柱も塀も元々もっと濃い黒灰色なんだよ。水で濡れるとそれを隠しきれなくなるんだ。」
 また真希は笑った。
 あたしはボランティアで、体にコンプレックスを持ったこの少女の話し相手をやっている。障害を持っているから心はピュアだ。つきあいやすいかもしれない。でもあたしは、友達にはなれないと思う。この子は自分の世界を生きている。あたしとは全然違った世界を持っている。聞いただけで全てを見渡せる千里眼の超能力者
そんな風にしてこの子は自分を守っていた。
 「もっと外の話をして。この前みたいな、花火の話を。」
 真希は、今度はせがむように言った。すでに機能を失った真希の瞳孔がダークグリーンの不思議な輝きを持った。
 「花火か。今日中止だな。」
 それを思い出してあたしは、暗澹たる口を開いた。今日は、楽しみにしていた年一回の花火大会。それが雨で中止なのだ。
あたしは、ずっと花が好きだった。でもいつ散るか分からない花は怖い。桜の散り際は嫌でたまらない。それに比べたら花火はいい。花火には悲しんでいる余裕なんてない。真っ暗に散りゆく一瞬前が至福の時だ。ルビー色にきらめく満点の夜空を支配したきらめくような胸の高鳴りだけがそこに残る。
あたしは、前にその花火を散々真希に語った。決して見えるはずのない、赤と青と朱と緑の限りない美しさで彩られる芸術を。残酷だ。あたしがしたことは、ものすごく残酷なことなのかもしれない。
「中止?雨だから?」
「そう。雨の日は花火は打ち上げられない。」
あたしが言った瞬間ふっと真希の笑いが消えた。
真希の手があたしにふすりと触れた。
触られただけで何かが悟られるなんてあたしは信じてない。
「つかれてる。梨華ちゃん。かわいそう。」
「そんなことないって。今日は花火大会が中止になってちょっと残念なだけ。」
あたしは、オーバーなくらい明るい声で真希の言葉を否定した。
あたしは、毎日を十分すぎるぐらい楽しんでいる。疲れてなんているはずがない。ただ真希が見えもしない視覚の世界を雄弁に語ってしまう自分が嫌になだけ。あたしは、真希に何を聞かれても本当は何も答えられない。結局は何も見えていないと一緒なのだ。
真希に話すあたしにはあたしの世界しか存在しない。まるであたしだけが正しいかのように。あたしが気付かないものはまるで存在しないかのように。
もし真希のあの美しく深いダークグリーンの目に光が灯ったらどんなに世界は美しいのだろうかと思う。そうすればあたしの言葉遊びになんて振り回されなくて済む。あたしの言葉は真希を暗くて狭い視界で頭をごちゃまぜにして、悲しき偽の千里眼のように頭を虚構のビジュアルに埋め尽くすだけなのだ。
「今日、花火見えるよ。」
真希の言葉は限りなく唐突だった。真希の顔にまた微かな笑いが浮かんでいる。でも笑いには強い意志を含んでいた。あたしを必死に励ますという。
「分かってる。ありがとね。ごっちん。」
あたしは、それだけ言って買い物にでかけることにした。今日は、真希に雨と花火の中止の愚痴を言いに来たわけじゃない。買い物に行っておいしい料理を作って・・・。とにかくこの子のために出来ることをしてあげたかった。
窓からは、すらっと明るい街灯の光が見えた。
あたしは、あたりがすっかり暗くなっていることを悟った。
真希と話していると時間も温度も記憶も微妙にずれる。まるで別世界に来たみたいだ。
たたん。財布を忘れたあたしは、玄関でいったん引き返すとドアをぼこんとすごい勢いで開けた。
外はほの暗くそして明るい。一瞬浴衣の女の人の姿が目のどこかに映ったような気がした。
一瞬雨の音がやむ。
ふと上を見上げると花火があった。静的で消えることのない花火。
花火の絵を書いた黒い画用紙が雨よけの天上に貼り付けてあったのだ。玄関のライトに乱反射して花火の火が滲むように光っている。
はっとして食い入るように見つめた
途端にものすごい光が身を包んだ。湿った空気に包まれた花火の絵が美しく光り始めたのだ。人工的な光と自然の美しさがまじりあったような鮮やかさがそこにあった。
ありえない。ありえなさすぎる。花火は動的でなければいけない。そして鮮明に。でもこの花火は消えない。そしてにじむように美しさを見せ付けている。
このままではあたしが今まで見てきた花火が否定される。そうあたしは本当に花火を見ていなかったのか。
花火は打ちあがるだけではないのだ。
ずっと心に住み着いている花火。
あたしの前にぼやんと存在している花火はまさにそれだった。
 
「梨華ちゃん。気付いてくれたんだ?やっぱり目が見えるのっていいな。だってあたしが描いた絵もあたしの表情も何だって気付いてくれる。でもね。梨華ちゃんだけだよ。あたしの目になってくれるの。
雪が白いことも、水が透明なことも、花がきれいなのも、火が赤くて花火が美しいことも全部、全部梨華ちゃんが教えてくれたんだよ。」



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